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平泉を訪ねた

 9月の34日の土日、台風が四国に上陸し日本海に抜けるサナカに、松島から平泉を巡るバスツアーに参加してきた。

 日本の世界文化遺産の地は、学生旅行や日本の都市空間のリサーチ、沖縄博の機会にほとんど訪ねていたが、平泉だけ未だ行っていなかった。

 このブログでは鎌倉の世界遺産登録や百代の過客について沢山書いてきたので、期日的にも予算面にも無理がないプログラムのJTBのツアーを見つけ参加したのである。

 

 タイトルを見ると平泉を見た感想を先ず尋ねられると思うので、そのあたりについて書いてみたい。私が平泉と言われ、先ず思い浮かべるのは「毛越寺の浄土庭園」であった。その点は多くの人が中尊寺の金色堂を思い浮かべるのと比べ一寸ずれているだろう。

 建築や庭園の良さに関する私の感じ方には、優れた空間の造形を第一とし、材質の豪華さや装飾の華麗さは二の次とするところがある。戦後のバウハウス的教育の影響である。

 

 さて毛越寺だがその名は、学生時代に日本の都市空間の研究に係わり出した頃から、頭に入っていた。森蘊(おさむ)というえらい先生がいて、日本の歴史的庭園を数々世に出してきた。昭和初期に内務省に入り、戦後奈良の文化財研究所に赴任し庭園発掘や整備事業に携わり、その後文化財審議会の専門委員も務めた。鎌倉の永福寺庭園の最初期の発掘=昭和6年頃にも関係されている。手に入れ易い著書に、「日本庭園史話」(NHKブックス)、「日本の庭園」(吉川弘文館)などがある。

 

上記の両書とも毛越寺庭園の実測図を載せているが、この庭は平安時代の寝殿造系庭園の典型で、京都でも見られない昔の寝殿造りの庭の姿を、「作庭記」の記述通りに伝えているという。

実際に訪れ池の周りを巡ってみると、その昔平安貴族達が広い庭を作り、さまざまな遊びに興じたゆっくりとした時の流れを実感できるところがある。中島や橋跡、築山、前栽、石の組立て、建物跡の礎石、やり水の流れ、洲浜の小石などが、「こうした要素の組立てで日本の庭ができるのだ」と知らせてくれる。数十年前から念願としていた出会いがようやく叶った次第である。

  さて次に中尊寺であるが、金色堂は写真やTV画面でよく見ていたせいか、予想していたイメージとあまり変わらない姿で見られた。四周の濡れ縁の支柱までもが、金箔で蔽われていた。

産金国の財力を見せる意図もあったのだろうが、一方で、深い雪に埋まるこの地の尊い建築の構成材を腐らせない工夫として、金箔でくるんだのかなとも感じた。

今の覆い屋はコンクリート造だが、鎌倉時代に作られたという旧覆堂が移築され建っていた。古拙さのある中々佳い感じの建物であった。隣の経蔵、境内の白山神社能舞台とともに重要文化財である。

前の日に訪ねた松島の瑞巌寺でも感じたが、東北の厳しい気候に耐えてきた堂宇や杉の木立は、見る人にその長い歴史を思わせ、印象的な境内空間が出来てきている、と感じた。

 

その上に大きな功積があると感じさせたものは、芭蕉の紀行文と俳句である。

「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有り。秀衛が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。・・・さても義臣すぐって此城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと・・・」  『夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡』

「兼て耳驚かしたるニ堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散りうせて、珠(たま)の扉風にやぶれ、金(こがね)の柱霜雪に朽ちて、既に退廃空虚の叢と成るべきを、四面新(あらた)に囲みて、甍を覆ひて風雪を凌(しのぐ)。暫時(しばらく)千載の記念(かたみ)とは なれり。」  『五月雨の降のこしてや光堂』

風土・文化と歴史の時の推移とを、これ以上簡潔に印象深く書けるとは考えられない。かつて栄えた平泉に悲しい滅びの歴史があり、それにもかかわらず仏教思想を表す証となる文化資産が、その風土とともに永い時を経て残されてきた姿を、的確に後代に伝えている。

 

そんな訳で、平泉が世界遺産になることに十分に納得したわけだが、鎌倉と比較しての違いは毛越寺も中尊寺も(松島の瑞巌寺も)平安時代、延暦寺第3代座主慈覚大師円仁により開かれた(金色堂も平安末の建立)寺院であるのに対して、鎌倉の世界遺産候補地の寺院は頼朝が鎌倉に武家政権をうち立てた後に開かれ、平安仏教の伝統を革新するものであったことである。そのことは「日本の社会・文化と仏教思想の変遷」でも述べたが、鎌倉の文化遺産となる寺院は、日本全国の統治を実行した武家政権が持っていた「革新性・始発性」を反映するものであったと言える。

 

平泉の景観要素として金鶏山が挙げられていたが、鎌倉の文化遺産の構成資産となる山は、町の周囲を取り巻く古都法6条の丘陵一帯であり、広くしかも分かりやすい。

一つひとつ比較してみると、金色堂に匹敵する国宝モニュメントには大仏がある。毛越寺の庭園に対しては、後の枯山水庭園の先駆とも言える瑞泉寺庭園や建長・円覚両寺の方丈庭園がある。寿福寺の総門から仏殿に向う石畳等の趣きある境内も多い。大仏にしても庭園類にしても平安貴族の慰安のための施設から抜け出て、一般民衆や禅修行者たちの為に作られて社会文化的広がりが強い。

鶴岡八幡宮と若宮大路の存在は、武家の都の中心軸を明確に印象付けている。平泉には無い海の存在も鎌倉の大きな特徴で、和賀江嶋や称名寺のある六浦の存在は、日本全土と交易した町だったことをよく示している。その他要害の地を印象付ける切通しや、やぐらのある崖などは武家の古都の風土・地形特性をよく示し、分からせている。

 

鎌倉の場合武家の古都の広がりが、平泉の仏国土の範囲と比べて広く、その文化を証明する寺社その他の文化資産の要素数も多い。そのために推薦書案を作る当事者たちは、鎌倉の文化遺産の上手な説明づくりに四苦八苦した。鎌倉の場合は、全体としての文化遺産地は広く、多様な要素を含んでいるので、巡ってみる人々を飽きさせない魅力がある。平泉に比べれば、より大型で多様性に富む、魅力豊かな文化遺産地と言える。だいたい以上のようなところが私の感想だった。

 

芭蕉が「奥の細道」でたどった所について書くためには、あまりに短い時間の訪問だった。仙台に泊まるのも今回が初めてであったが、忙しい旅程の中で青葉城城址から仙台の町を俯瞰することができた。

 平泉も含め家の造りなどは全国共通の姿になりつつあり、ユニクロやイオンなどの全国チェーンの店が進出してきていて、地方都市の一般的傾向で自動車交通の比重が高く、道路幅員や駐車場の広さが印象的だった。平泉や松島などの社寺でも、至近に広い駐車場が拡がり、『「歴史の跡の保存」とその見方』で紹介した大佛さんの望む姿にはとても合わない状況であった。こうした一般の町の傾向に対して、狭い路地をよしとして、歩く人の道づくりを主張する、(今も元治苑跡のマンション計画では行政に物言いを続けている)市民たちの「歴史的まちづくり」にかける情熱は貴重なものである。 

今のところ敷地的制約もあって、寺社の周りの駐車場は小規模で分散している。その辺で済んでいる分には周りの山が見えてよいとも言える。この状況は中規模都市にもかかわらずJR駅が三つあり、江ノ電も走っていて、軌道交通利用者の数が多いためである。これは明治の先人たちの功績である。

また全国ブランドの企業ロゴマーク類の色にも注文をつける景観行政の健闘も誉めてよいことである。

  11月に予定されている「住んでよく、訪れてよい鎌倉のまちづくり」のためのワークショップから、交通需要管理施策の進展も含め、鎌倉の望ましいまちづくりの方向が見えてくるとよい、という期待を持っている。
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まちもり

松島の震災被害はいかがでしたか。
by まちもり (2011-09-07 13:15) 

山上楽雄

 当日は台風の余波で湾内に白波が立っている状態で、予定されていた松島クル―ズは出航禁止で乗れませんでした。しかし上下する波の模様は湖の波に似ていて、湾内に数多くある小島の存在が、列をなして押し寄せる波を砕く効果を与えているようで、津波の被害をあまり受けないで済んだようです。
 一帯を見る限り震災の痕跡は一切見当たりませんでした。松島は観光で生きる所なので、特に早く片づけてしまったのかもしれませんが。
 松島に着くまでにバスで通り過ぎてきた、比較的大きな川の河川敷に廃材等が仮置集積されていたのが、今回見た唯一の震災跡の光景でした。
by 山上楽雄 (2011-09-07 20:34) 

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