So-net無料ブログ作成
検索選択

トインビーと中村哲‐アフガニスタン

 

「民族の分水界」アーノルド・トインビー(毎日新聞社刊『アジア高原の旅』の

黒沢英二氏訳文章を一部短縮、要点のみを写す)

 水と水銀のみが、さかのぼり流れるすべてのものではない。羊の群れも、さかのぼり流れる。遊牧の民の集団もまたしかり。三月ともなれば、パシタン族の遊牧民は毎日、山道をサケのように、さかのぼり流れて行く。彼らはパキスタンやインドの平原から、アフガニスタンの高原に向かって、北西にさかのぼり流れる。

 きょうは、ムカーからカンダハルへの道で他の集団に遭遇した。今度もまた、山道をさかのぼり流れていたが、彼らは南西から北東の方向に、向かっていた。

 カイバー峠とアラコシア回廊の間で、私は、遊牧人の流れの分水界を過ぎた。南西からも、南東からも、遊牧民は、ハザラジャト山脈高地の夏の牧草地で合流するのだ。

 きょう私たちがすれちがった一団は、動物とその付添の人間をともに数えて、あまりに大勢だったから、その大群を通してやるために車をとめなければならなかった。動物は、その集団のうちに数えなければならない。彼らはひろく場所をとるばかりでなく、完全に家族のうちに含まれているからだ。人間どもは自分たち自身より、もっとやさしく動物を扱っている。

 きょう出合った集団では、めずらしく、小さな男の子が、まじめくさった表情でロバの背に乗っていた。しかし、ラクダの赤坊がカゴに入れられて、親ラクダの背のコブの両側に一つずつ乗っているのなら、よく見られる光景だ。

 子ヤギや子羊にいたっては、人間の幼児と同様、人間の腕のなかに抱かれている。白髪まじりのヒゲ男の一人は、子ヤギを二頭も抱いていた。成育した羊は自分で歩かされている。彼らの小きざみな足はこびは、生かわきの土の上に、異様なひびきをたてていた。

 ふと気がつけば、子供たちのなかに、私の孫娘の一人がいる。背たけ、顔かたち、目つき、表情、みな生きうつし、全くウリ二つの双生児だ。

 この二人の相似は、人類というものが、実は一体である事を示す生きた実例であろう。「パシタン人」といい、「英国人」といい、私たちが自分や、他人種に、付加している名称も、単なる「因襲的符号」にすぎない。

 この流浪のパシタン族の祖先が、ヒンズー・クシを越えて現在の南側の地方を遊牧地とするようになったのは、いつごろなのか。現在のパシタン族は、相ついでいく度か来襲した侵略民族の子孫で、それぞれパシタン語とその地方特有の遊牧民生活様式を継承して今日にいたったものと推定してよいだろう。

 その侵略民族らは、背後の追跡者から逃げて来たのか、あるいは、目の前の牧草地にひきつけられて来たのだろうか。

 今回の私の左回りアフガニスタン一周旅行では、この中央アジア遊牧移民の南東方面移動行路を、逆の方向にたどって、ジレラムとファラの間の地方を進む。そこには、ゴル山脈の最南端の触手でかこまれた緑の盆地が六箇ほどもつづいている。

 五月初旬、これらの牧草盆地は、草をかむラクダ、羊、ヤギの群れと付添の人間どもであふれていた。

 カンダハルとムカーの間で数日前に出会った、流浪のパシタン族集団のように、左回りに旅すれば、ハリ・ラドの谷間から南方および東方に向かっての途上、ほとんど連続的に緑の牧草地を通過することになる。

 それが紀元前二世紀ごろ、ユエチ族に圧迫されたセイカ族が、ジャクサルテスとオクサスの盆地にあった祖先伝来の放牧地を捨て、ヘルマンド盆地を経て、遠く南東方のマハラシトラにいたるあたりに移住する時にたどった道なのであった。

 けさは、ムカーとカンダハルの間の道で、私は、二千百年前、歴史の流れを変えたあの「民族移動」の生きた実例を目撃したのであった。

 上の文に出会い、しばらく前に読んだ中村哲「アフガニスタンの診療所から」(筑摩書房)を思い出した。

 1992年5月以来、怒涛のようなアフガニスタン難民の帰還が、カイバル峠などを越えて実現し、医師中村哲とペシャワール会の現地活動が軌道に乗りはじめた。この本で彼は近代社会側からの前近代社会への復興援助行動を鋭く糾弾している。それは、以下のような言説から窺うことができる。

 アフガン戦争はベトナム戦争とよく比較される。冷戦構造の中で、超大国に抵抗した小国が相手を圧倒したという点は同じである。しかし、「アフガニスタン」が小気味よく思えるのは、たとえ国際政治力学のはざまという時の利があったにせよ、「民主主義」があざ笑う前近代社会が、近代社会の暴虐をはねかえし、翻弄したという事実である。

 人びとは自分をおびやかす外圧にたいして果敢に武器をとり、そしていま同一の単純な動機で戦を拒否して武器を農具に持ちかえ、なにごともなく元の世界に帰りつつある。日本やベトナムが自分を近代化することで外圧に対抗し、やがては自らも「近代」の重圧に悩むという構図はここには見られない。

 発展途上国ということばが、後進国の差別的イメージを避けるために使われてきた。だが、はたして何に向かっての発展なのか。公平に言うならば、先進国も、発展過剰国と言い換えるべきである。無邪気に技術文明を謳歌する時代はすでに過ぎ去った。

 その昔栄光をほこったガンダーラ文明の廃墟に立って、このアフガニスタンでおきた悪夢のような血の狂宴を想うとき、ひとつの感慨に支配される。我われの文明もまた、自壊作用がはじまっていることを感ぜずにはおられない。・・・爆撃で壊滅した村落の光景が、繁栄をほこった文明の遺跡と酷似しているのも意味ありげに思える。

 この廃墟こそ、混乱の時代を生きる我われへの無言のメッセージである。

・・・営みが、漠々たる砂塵と化して熱風の中に消えてゆくたしかな実感がここにはある。もともと人間が失うものは何もないのだ。・・・アフガニスタンをとおして、むきだしの人間と文明の実態にふれえたことを私たちは感謝している。

 真剣に考えればぞっとするような問題でさえ、「二十一世紀に向けて」だの、「グローバル」だの、「地球にやさしく」だのという流行語で、うわべをよそおって安心しているのが日本の現状だと思えてならない。「アフガニスタン」は、このような日本の現状とまったく対照的な世界で、貧困、内乱、難民、近代化による伝統社会の破壊、人工・環境問題など、発展途上国の悩みすべてが見られるだけではなく、数千年を凝縮したさまざまな世界がそのまま息づいている。

 近代化された日本ではとうの昔に忘れ去られた人情、自然な相互扶助、古代から変わらぬ風土――歴史の荒波にもまれてきた人びとは、てこでも動かぬ保守性、人間相応の分とでもいうべきものを身につけている。

 ここには、私たちが「進歩」の名の下に、無用な知識で自分を退化させてきた生を根底から問う何ものかがあり、むきだしの人間の生き死にがある。こうした現地から見える日本はあまりに仮構にみちている。人の生死の意味をおきざりに、その定義の議論に熱中する社会は奇怪だとすらうつる。

 前回に引き続き、人の生死に直面する医師の文を引いた。こうした観点をもつ人たちから見れば、「世界遺産」になるかどうかに関心をもつ地域社会なども、「仮構にみちている」ことになるのだろうなぁー。

 しかし、そうした所でも人情、自然な相互扶助、変わらぬ風土、歴史、保守性や人間相応の分などを重く見るコミュニティはあり得る、と思いたいのだが。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この記事のトラックバックURL:
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。