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感想・イコモス勧告について

 鎌倉世界遺産登録推進協議会の役員会があった。会長である松尾市長が議長を務めたが役員は皆が、勧告を重く受け止め鎌倉市が6月の世界遺産会議への推薦取り下げを望む、と県・2市および文化庁に伝えるべきだ、という認識・感想を示した。

 以下は勧告を読んでの私の感想である。

ホーム オブ サムライとして日本国がユネスコに提出した推薦を検討したイコモスの審査チームは、鎌倉がサムライのまちとして実体があるかどうか?を審査した、と見受けられる。

 役員会では、イコモス勧告の仮約と概要が配られ、市の担当から「不記載」という勧告の中身が報告された。

結論は「OUVがあるとは見なせない、不記載が適当である」というものだったのだが、ここで英文も読んでの感想を端的に述べてみる。

まず、日本側のOUVを「顕著で普遍的な価値」と訳してきた、あいまいな世界遺産価値に対する認識に、大きな問題点が潜んでいたという感じがある。(仮訳でも上述の訳語が使われていた)

 このブログで英文推薦書を解説する中でも指摘してきたことだが、outstanding universal valueという語の意味は、「世界の誰が見ても(他にはない)抜きん出た価値」ということだと思う。

 世界文化遺産には、そこを訪れて見た人が言葉で説明されなくても、「うん、これは他所にはない文化・文明の証(あかし)だ、世界の宝として大切にしなければならない!」と感じさせる資質を備えていることが求められる。

 次には、私もいくぶん誤解していたのだが、Home of the samurai として鎌倉を推薦したのは、武士階級が初めて作った日本支配の政権地であった鎌倉に残る「歴史的エリア」を世界文化遺産の価値があるとし、推薦したのだと思っていた。イタリアの古都の中心部がチェントロ・ストリコとして推薦されたように。

 ところが、イコモスは「サムライゆかりのまち」として推薦された山の中には、それを示すようなOUVを感じさせる物がない、「これじゃとても駄目」と言い最低位の「不記載」勧告をしたのである。

 文化庁も関係自治体も歴史学者も考古学者も、発掘調査を行って過去の存在が証明されると史跡などに指定される日本的慣例が頭にあるので、調査され証明されている所は国の法的な保護措置も十分にあることだし、「場所を示すことだけでOUVがある」と受け止めてもらえる、と錯覚していたように見える。そういう経緯もあってか、イコモス側も「歴史的価値は評価する」と言っている。だが、世界の人のOUVという語の理解は上述のようなニュアンスのものだったのである。

 まちの中核部に歴史を示すOUVが無いことは、日本側も認識していたのでそこはバッファゾーンとして、「山側にサムライのまちの跡が残る」として、世界遺産のプロパティとして推薦書を作ったのだが、これにはサムライ階級が作ったまちに残る『歴史的エリア』を考えている、ということが分かってもらえる丁寧な説明が抜けていたのである。

 鎌倉などにある日本の中世遺跡では、木で出来た施設の痕として残るのは、当時の地山(ぢやま)に柱が立った所の穴ぼこだけであり、それを現したままにすれば風化し消滅してしまうので、通常は埋めてしまい発掘前の原っぱに戻してしまう。

ローマの遺跡など、上物は破壊されていても煉瓦や石で造られた立派な基礎は残る、というような町とは質が違うのである。イコモス側としては町を囲む山に価値があると言われても、そこにはサムライのまちのOUVを示す物証が不足するので、世界遺産リストに加えるのは適当でない、と言わざるを得ないのである。

 推薦書を作った側の認識と審査した側の認識とがずれていて、それがOUVに関する指摘で図らずも明らかになったのである。

 日本の文化では、施設の物量などは慎ましくて質素であっても、代わりに周囲の自然地形などをよく生かして、いわばエコな生活環境の中に大きな精神的環境を創ってきた、そんな日本の文化的伝統の意義を丁寧に説明し示すこと(岡倉天心が「茶の本」を英語で書きすでに説いていたことだ)、が必要であったのである。

 木で作られる街では機能性や新しさが重視され、間を置かずに襲ってくる天災・戦乱などに対して、まち部分では「行く河の流れは絶えずして…」と書いた鴨長明が示した無常観も作用し、時に応じて変化がどんどん進んで行くこと。そしてその変化への対応措置としては、施設の仮設性を考えるのが有効だったこと(長明の3m四方の庵は引っ越そうと思えば、何時でも解体し車で運ぶことが出来、好む所でまた組み立てることができた)など、日本の文化風土の特性を十分に説明する努力が必要であったと思う。

幕府施設なども、幕を張り巡らした本拠地という言葉から想像されるように、機動的で仮設的なものと考えられていたであろうことも、ぜひ説明しておく必要があったと思う。歌枕のように場所が大事なのが、日本の伝統であることも。

 したがって、精神文化を伝える社寺施設に関しては、天災・人災に襲われ失われる毎に再建され、境内地は残されてきて創建の昔を偲べる。このことに関しては、本ブログで既にD.キーンさんの文を紹介し、鎌倉の山を含む文化の場の存在の貴重さを説明してきた。

円覚寺の舎利殿や建長寺の仏殿などが、後世に他施設から移築されてきたことに関しても、それが日本の木造施設に縁(よ)る文化の長所を示すものであり、他所からの流用と軽く見てはいけないのであり、先に在った地での物語も加わり、その存在には意味が重ねられてくること、なども他国の人たちに十分に分かってもらえる説明が必要だったと思う。後世のそうした付加が場のもつ文化性をますます厚いものにして行く、そういう面が鎌倉の文化遺産にはあり、そこが世界の人々の心を打つであろうこと、などをうまく説明できなければならなかった。

発表後に神奈川新聞がインタビューしたイリナ・ボコバ ユネスコ事務局長は、鎌倉を「とても美しい所」と評価する一方、「登録には、非常に厳格な基準を満たさなければならない」と述べている。しかしそれには、ユネスコの評価基準が未だ欧米流の固いものの実在感を重視し過ぎる文化財観に捕われている、これからの世界には鎌倉が提示したような文化遺産のあり方がとても参考になる筈だ、という論の立て方もあり得たのである。

世界に向けて、天心が「茶の本」を書き、新渡戸が「武士道」を説き、大拙が「禅」を紹介してきた努力は、すべて日本の文化の特異性・意義を世界に知ってもらうためであった。

反省すべき点として、世界文化遺産に推薦するのであれば、日本・鎌倉の文化やそれを取り巻く精神・風土の抽出と、その誰にも理解できる説明にじっくりと取り組むべきであったのに、世界遺産の「傾向と対策」に走ってしまい、受かることだけを目標にしてきたような取組み方に問題があった、と見ることもできる。

そう考えてみれば、ヤング氏など海外からの助言者たちが、社寺などの文化施設と共存・調和して在る、自然豊かな山そのものが、鎌倉の文化遺産の(山の傍らにある)「歴史的エリア」の大きな物証である、と言ってくれたのに、その辺の説明が充分に尽くせなくて、鎌倉のまちそのものを中世の武士階級のまちとして出したように受け取られてしまい、山の中には武士のまちだったら当然示されるべきOUVを感じさせる物証がない、という裁定になってしまったと考えられる。

そういう裁定を下されたことを重く受け止め、鎌倉の自然と共にある文化環境の意義を浮き上がらせ、世界の人たちも理解できるように、文化のまち鎌倉のあり方を見極めて行く努力を重ねる地道な取り組みが、迂遠なように見えても案外と近道なのかもしれない。

最初に述べたOUVの受け取り方・受け取られ方の違いを考えれば、世界遺産登録は、一部の歴史・考古学関係者が主張する「大倉幕府跡の十分な調査が世界遺産登録のためには欠かせない、それが実現すれば鎌倉の世界遺産への道は開ける」というほどの簡単なものではないようにも思える。

 いま、たまたま、昨年の「鎌倉の趣と理」をテーマにしたワークショップの総括を受けて、鎌倉で文化の場を設けて交流活動を進めている人たちと、800年来の文化の場を守り受継いできた坊さんらが対話する「文化を紡ぐ」と題するシンポジウムを、98日に建長寺応供堂で開催する企画が進んでいる。それは、上述した地道だが正道と言える取り組みの一つだと思われるが、これに関する紹介はまた次の機会に譲ることにしよう。
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まちもり

今、世界遺産登録OUVに適う最たるものは、「福島第1原発」であると思います。
by まちもり (2013-05-27 11:16) 

山上楽雄

 おっしゃるとおりです。鎌倉は上の文で書き切れなかった難しいところも有ります。「なかなか、世界遺産になじまない面がある」と言ったらよいでしょうか?
 しかしだからこそ、卒論・修論と関連するテーマに取り組み、伊藤ていじさんらと共に、「日本の都市空間」を著わしてきた私としては、鎌倉を時が刻んで出来た「まち空間の稀有な例」として、なかなか世界の他に無い例だと言って、世界に紹介し世界遺産の枠を拡げてやろう、という気持ちを持ち続けたいのです。
by 山上楽雄 (2013-05-30 02:05) 

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