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千のプラトー(ドゥルーズ・ガタリ)から

 前に載せたブログ文でも紹介したこの本は難解で読者に相当な忍耐を強いる。難しさが、多岐にわたる新しい概念の提示によるからか、哲学者が一般読者に正確におのれの考えを伝えたいために難しくなるのか、フランス語から日本語翻訳する無理にあるものなのか?おそらくはみな夫々に、難解さにあずかっているのだろう。しかしながら、中に、結論だけ早く得たいと思うわれわれのような者を喜ばせる文章も、時々は出てくる。

 

  これらの生成変化(ドウヴニール:なること)のおのおのが二項のうちの一方の脱領土化ともう一方の再領土化を保証し、二つの生成変化は諸強度の循環にしたがって連鎖をなしかつ交代で働き、この循環が脱領土化をつねによりいっそう押し進めるのだ。そこには模倣も類似もなく、一個の共通のリゾームからなる逃走線において二つの異質な系列が炸裂しているのであり、この共通のリゾームは意味にかかわるどんなものにも帰属せず、従属もしない。レミ・ショーヴァンはこう巧みに言っている――「お互いにまったく縁もゆかりもない二つの存在」と。より一般的にいえば、進化の図式は、樹木と血統という古いモデルを放棄しつつあるのかもしれない。リゾームは一つの反系譜なのである。

 

 本と世界についても同じことが言える――本は根強く信じられているように、世界のイマージュなのではない。本は世界とともにリゾームになる。本と世界との非平行的進化というものがあるのだ。本は世界の脱領土化を確かなものにする。けれども世界は本の再領土化を行ない、今度はその本がそれ自体として世界の中でみずからを脱領土化するのである(本にその能力があり、なおかつ実際にそうできるならば)。

 

植物たちの智慧――たとえ根をそなえたものであっても、植物には外というものがあり、そこで(媒介する)何かとともに――風や動物や人間とともに、リゾームになる(そしてまた動物たち自身が、さらには人間たちが、リゾームになる局面というものもある)。「われわれの中に植物が圧倒的に侵入するときの陶酔」。

 

そしてつねに切断しながらリゾームを追うこと、逃走線を伸ばし、延長し。中継すること、それをさまざまに変化させること、n次元をそなえ、方向の折れ曲がった、およそ最も抽象的で最もねじれた線を生み出すに至るまで。脱領土化された流れを結び合わせること。植物たちについていくこと――手はじめに、継起する特異性の周囲に生ずる収束円が、限界内に位置し、かつ別の方向を向いた点をともなって生じるかどうかを見る』のだ。=わが家の手入れ・形成をしてみると、二重鍵カッコ内の文章が実に感覚的に理解できる)

 

 書くこと、リゾームを作り出すこと、脱領土化によって領土を殖やすこと、逃走線をそれが一個の抽象機械となって存立平面全体を蔽うまで広げること。

 

 「まずきみの最初の植物のところへ行って、流れる水がこの点から発してどんなふうに流れるかを注意深く観察した。雨が種子を遠くまで運んでいったにちがいいない。水が穿った溝のあとをつけたまえ。そうすれば流れの方向がわかるだろう。そうしたら、その方向できみのからいちばん遠くにある植物を探したまえ。その二本のあいだにある植物はみなきみのものだ。もっと先で、そのあいだにあった植物が今度は自分の種子をまき散らすとき、きみはみずからの一本一本から発する水の流れにしたがうことによってきみの領土を殖やすことができるだろう。 

 

 音楽みずからの逃走線の数々を、そのまま「変形する多様体」としてたえず成立させてきた。たとえ音楽というものを構造化し樹木化している諸コードをくつがえすことになっても。だからこそ音楽の形式は、その切断や繁殖にいたるまで、雑草に、またリゾームに比べることのできるものである。

 

 このあと、地図作成に関する考察が続くが、植物に関する下線を引いた記述は、概ね理解できるだろうと思う

 リゾーム化した社会に向き合うときに、採用すれば有効と思われる記述である。この記述が出てくるのは、本の冒頭=『千のプラトー』の、リゾーム の部分である。―それでも、これまでのリゾームに関する二つのブログ文は、今日紹介した文章の理解には、役だったのではないだろうか

 

 おそらく、本書を隅から隅まで読み切ることはないだろうが、取りあえず、これきりの内容で短い投稿を済ませておきたい。


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