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武田泰淳 滅亡について (岩波文庫)

  8月初めの土曜日、暑い日だったがさっぱりしようと散髪に出かけた。そのあと、由比ガ浜通りを歩いて公文堂を覗いた。平積みの文庫本の一番上に武田泰淳の本があり、かねてから気にしつつも読めなかった作家の本だったので買ってきた。何となく、もう読んでおいてもよい時に来ているかと感じたのだった。

相変わらず、いろいろと出向く事や連絡事の多い日々だったが、その合間をよくこの評論集が埋めてくれた。・・・というよりも今年の年まわりに全くぴったりハマった感のあるタイトルであった。

標題の評論は上海で終戦の一大転機を迎えた著者が、近代文学者としてその後の歩を進める契機となった諸考察を記したものである。

いま、平和憲法の解釈に関し議論が盛り上がってきたところであり、メルトダウンした原発に際限のない手当を施している時で、6日と9日の原爆記念日の行事では憂慮の言葉が多々語られたばかりだし、この本の数々の評論は考えさせるものを沢山与えてくれた。

偶然なのだが、高座教会献堂式で頂戴した新共同訳バイブルがあり、エレミヤ書やサムエル記など、また黙示録などを武田の文に沿いつつ読み進めることができた。

さらに、人の求める道に対する取組みに関しても、今の私に痛打を与えて来た。そうした本なので一つ一つの評論について詳しく書くのはこのブログではとても無理で、文の枠組みの工夫もつかない。しかし、片りんだけでも残しておきたいので頭の方にある二篇の紹介をしてみよう。

「支那文化に関する手紙」

M君。・・私ばかりでなく兵士たちはみな黄濁した目を凝らして自己の国の姿を眺めています。何万という兵士たちは「支那」を自分の目に写してきました。日本の文化の歴史にとって、どれほど深い意義があるか考えられないほどです。・・生きて働いている支那人が支那を形成している。・・

  戦地でパール・バックの「大地」が日本でよく読まれていると聞いたのだが、さほど優れた小説とは思わなかった。が、日本人が支那人を書いたものは無いので悲しくなった。現在支那人を書くことは、恐らく世界各民族にとって一つの課題だ。書くことはその国の文化的表情を示すことになる。日本の作家は日本人の生活や性格について書いていた。支那人を書いた優れた小説の一編は、百の議論より諸外国、ことに支那に対する文化政策に役立つ。と私や支那を見てきた多くの兵士は感じる。

 (戦時ゆえの歴史的文化のあきれるような消耗の数々も見てきたが→) いまの私は自己の「文化」をだきしめている身一つが残ったらそれでよい、だきしめる物一つなく文化と言うことの軽々しさを感じる。一冊の書でも身にしみて読むこと、それが何と困難なことか、今にして知る。

「滅亡について」

 近代の文学者の念頭にはどこかに「滅亡」という文字が、或いは滅亡についてのおそれが、また滅亡への予感、滅亡者への哀感がこびりついているように思われる。

 もとより敗戦、戦争停止が敗滅のどんづまりであった日本の現実に、懼れをなした私の精神薄弱のいたすところだが、「滅亡」という文字に心ひかれ、卑劣、惰弱だと知りつつこの二文字を胸に浮かべ、そこからものを考えるくせがついてきている。

 終戦後二、三日はまだ敗戦が身について来なかったが、フランス租界で友人の苦しげな表情、つい歪んで来る表情に顔つきあわせてみると、次第に自分の内臓の動きが一つ一つ耳にしみて来るほど、空虚な静けさに沈み込まぬわけにはいかなくなった。

 おごれる英雄、栄えた国々、文化を華咲かせた大都会が亡び、消え去った歴史的現象を、次から次へと想いうかべる。『聖書』をひらき、黙示録の世界破滅のくだりを読む。『史記』を開いては、春秋戦国の国々が滅亡して行く、冷酷な、わずか数百字の短い記録を読む。あらゆる悲惨、あらゆる地獄を想像し、想起する。すべての正義を手軽に吸収し、音もなく存在している巨大な海綿のようなもの。すべての人の生死を無神経に眺めている神の皮肉な笑いのようなもの。それらの、私の現在の屈辱、衰弱を忘れ去らせるほど強烈な滅亡の形式を、むりやり考えだしてはそれを味わってみると、少しは気がしずまった。

 滅亡は生存するすべてのものにある。世界の国々も、人種もかつて滅亡した。これら多くの国々人種を滅亡させた人種もやがては滅亡するであろう。世界という大きな構成物は、人間の個体が植物や動物の個体たちの生命をうばい、それを消化して自分の栄養を摂るように、ある民族、ある国家を滅亡させては、自分を維持する栄養をとるものである。・・・また私にとっては絶対的な勝利者、絶対的な優者、およそ絶対的なものの存在が堪えがたい・・・滅亡を考えるとは、おそらくは、この種のみじめな舌打ちにすぎないのであろう。

 滅亡の真の意味は、全的滅亡にある。それは黙示録に示された如き徹底的滅亡を本質とする。その大きな滅亡に比べて現実の滅亡が小規模であること、そのことだけが被滅亡者のなぐさめである。日本の国土にアトム弾がただ二発だけしか落されなかったこと、そのために生き残っている、それが日本人の出発の条件なのである。もし数十発であったとすれば、後悔も、民主化も不必要な、無言の土灰だけが残ったであろう。・・しかしこれだけの破滅だけでも日本の歴史、日本人の滅亡に関する感覚の歴史では、全く新しい、従来と全く異なった全的滅亡の相貌を、与えることに成功している。

日本の滅亡に比べ、中国は滅亡に対して、はるかに全的経験が深かったようである。中華民族の無抵抗の抵抗の根源は、成熟した女体の男づれした自信とも言えるのである。

  すべての文化、とりわけすべての宗教は、ある存在の滅亡に関わりを持っている。・・部分的滅亡であるかぎり、その個体の一部更新をうながすが、それが全的滅亡に近づくにつれ、ある種の全く未知なるもの、滅亡なくしては化合されなかった新しい原子価を持った輝ける結晶を生ずる場合がある。

科学はやがて、部分的滅亡を時代遅れとなすにちがいない。もっと瞬間的な、突然変異に似た全的滅亡が起こり得る。ヒューマニズムは如何なる陣容をもって、これと相対するであろうか。文化は、そして文学は、ヒューマニズムに常に新しい内容をあたえ得た文学は、どのような表情で、この滅亡を迎えるであろうか。

私が終戦後の上海で、各国の人々の喜びの声に耳をふたがんばかりにして、滅亡について想いめぐらしていたころの緊張は、今ではすっかり、ゆるみ、たるんでしまった。だが時たま、滅亡の片鱗にふれると、自分たちとは無縁のものであった、この巨大な時間と空間を瞬間的にとりもどす。

南方伝来の仏典『本生(ほんじょう)経』には仏が出現するための三つの予告が記されている。その第一の予告は滅亡である。天人たちは「皆さん、これから十万年経つと、劫(こう)のはじまりになります。その時、この世界は亡び、大海は乾き、この大地は須弥山と共に焼け失せ、大梵天に到るまで世界はなくなります。皆さん、慈心を起しなさい。悲心、喜心、捨心を起しなさい」と叫ぶ。ここでも滅亡は、常識を越えた時間と空間にわたって、予告されている。滅亡の予告は、ローカーヴューハに向い、平常の用意をはなれ、非常の心がわりをせよと要求している。大きな慧知の出現するための第一の予告が滅亡であることは、滅亡の持っている大きなはたらき、大きな契機を示している。




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