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博多、大宰府 行(博多の寺町)


 旅の三日目は午後に羽田へ飛ぶ飛行機に乗らねばならないので、午前中しか時間を使えない。ホテル近くの中洲川端駅で空港に向う地下鉄に乗ると次は祇園駅、地上に出ると御笠(石堂)川沿いの辺は寺町と呼ばれ、寺院が多く立地する地区である。

 時間も考えて駅を出てすぐの東長寺、それから禅寺の聖福寺さらに承天寺と、三寺院を覗いてみることにした。



IMG_0111 (東長寺).jpg東長寺は博多大仏で有名な弘法大師の開いた寺。塀超しに江戸期に建立された六角堂が見える。この寺の大仏(釈迦如来坐像)は10m強の高さを持ち、日本一大きな木像である。

  承天寺の裏に聖福寺があるので門を出て聖福寺に向う。 寺脇の道を聖福寺に向かうと外から東長寺五重塔が真近かに目に入る所があった。真言宗寺院の塔は色鮮やかである。

IMG_0112 (脇道から見る).jpg 

 旅に出る前に建長寺鎌倉禅研究会で聴いた九大の伊藤幸司先生の話では、日本の禅宗は博多で日宋貿易を担った宋人の居留地に先ず根付いた。その中心的寺院が聖福寺と承天寺だったという。

 聖福寺は栄西が源頼朝から寺地を受領し創建した日本最初の禅寺で、臨済宗妙心寺派の寺である。境内に入ると、街中の貴重な自然環境の有難味を実感する。IMG_0114 (外を見る).jpg

IMG_0120山門.jpg 山門には「扶桑最初禅窟」と記す後鳥羽天皇の勅額が掲げられている。

 伽藍配置は山門、仏殿、方丈が一直線に並ぶ禅宗様式になっている。

IMG_0113 聖福寺境内図.jpg 仏殿の裏の空間は護聖院開山堂に向う

静かな路である。IMG_0121 仏堂裏、護聖院を望む.jpg

 承天寺は聖一国師 円爾弁円が宋商・謝国明の援助で開いた寺院である。またこの寺は、博多祇園山笠の発祥地という。仁治2年博多に疫病が流行した折に聖一国師が施餓鬼棚に乗り町中を祈祷して廻り病魔を退散させた事から祇園山笠は始まったという。

 この寺院は臨済宗東福寺派であり、境内を市道により二分されているが、この路は承天寺通りと名付けられ境内路のように整備されていて、分割されていることを感じさせない。

IMG_0126.jpg 承天寺通り

IMG_0127.jpg 方丈前の枯山水の庭

 寺院巡りの後、地下鉄の博多駅に降り阪急デパート隣のAMUの上の方の階にある丸善で機中用の本を求め、それから中華料理店に入り担担麺ランチのお昼。

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 台風19号が近づいていたこともあって、空港に早めに入ったのだが乗る予定の飛行機が遅れて到着するということで、空港ラウンジに居る時間がとても長くなってしまった。

 それでも帰路は順調に運び、鎌倉の家で遅い夕食をとることができた。鎌倉-博多の空路による行き来は、以前の感覚から言えばドコでもドアーのようなものだった。










大宰府訪問(観世音寺)

 車は県道筑紫野大宰府線を行き、右折して観世音寺の参道に入り本堂(講堂)のすぐ傍に着いた。この寺を訪ねる人は少ないようで、子連れの女性と男女の二人組にしか出会わなかった。

IMG_0103.jpg本堂正面

 以下、このお寺の由来や仏像その他を説明するのに 谷口鉄雄「観世音寺」(中央公論美術出版)の説明・解説に依る。本の目次は次のようである。 1古鐘の響き 2敗戦の中に:天智天皇の発願 3日本三戒壇の一:建立の経過 4伽藍の配置 5盛衰の波 6巨像の殿堂 7ローカルカラー:彫像の特色 8宋風の狛犬・その他:附 戒壇院 仏像写真や挿図も分りやすい解説書である。

IMG_0105.jpg 菅原道真は「都府楼はわずかに瓦の色をみる 観音寺はただ鐘の声をきく」と詠んだ。 ここの鐘は創建当初の白鳳時代から伝来した唯一のもので、日本最古の紀年銘を持つ京都妙心寺の鐘と形・意匠、寸法などがほとんど同じである。

妙心寺の鐘は698年に大宰府に近い糟屋郡で鋳造されたことが判っている、観世音寺の鐘も同じ頃に造られたと考えられる。
   さて、大正三年九大病院で療養中だった長塚節は死の三月前の十一月に観世音寺を訪れ、「手を当てて鐘はたふとき冷たさに爪叩き聴く其のかそけきを」とうたったという。

寺院建立の由緒に関しては、大化改新後に唐・新羅の連合軍に攻められる百済を助けようと、斉明天皇は中大兄皇子とともに筑紫に下られたが、七月に崩御された。皇太子の中大兄は、白村江で大敗を喫したため西海方面の防備を固めるため、博多湾近くにあった大宰府を引下げ、今の都府楼址の地に置いた。事態収拾のための使節の往来も頻繁で、大宰府は任那の日本府に替る外交機関/鎮西の総括官庁として、まさに「大君の遠の朝廷(みかど)」となった。その大宰府の地に、征路に空しく崩御された母帝追善のため、天智天皇は観世音寺を発願されたのである。大宰府の正庁と東西に並び立つ観世音寺は、一つには「遠の朝廷」の荘厳のため造られたのであろう。

寺院の完成は天智天皇の発願から七十余年後の天平十八(746)年である。梵鐘はそれより先の文武天皇二(698)年に造られた。


 完成後の天平宝字五(761)年には、西海道諸国の僧尼の受戒の道場として戒壇院が設けられた。鑑真が設けた東大寺のそれ、下野の薬師寺のそれと並ぶ三戒壇院の一つであった。観世音寺は正庁に対して勅願大寺として、宗教面で大宰府を象徴する存在であった。なお、戒壇院が観世音寺に設けられた背後には、鑑真来日に功のあった吉備真備の存在があったという。


観世音寺の寺域は当初は方三町を占め金堂、講堂、塔、中門、廻廊等と南大門、経蔵、鐘楼など、さらに戒壇院、菩薩院を含んでいたが、度重なる災害のため当初建造物は一つもない。


鎌倉時代に一時復興の兆しがあったが、その後は衰微していたところ、江戸時代元禄年間に藩主黒田氏を施主とし、博多の豪商天王寺屋浦了無の篤志で、今の本堂(講堂)、阿弥陀堂(金堂)が再建されて、命脈を保った。しかし、元禄年間の中に戒壇院は観世音寺から分離、独立してしまった。現在は博多の聖福寺(臨済宗)の末寺になっている。 

IMG_0108.jpg 戒壇院

 

さて今回、私の旅の目的の一つは観世音寺の馬頭観音にお目にかかることであった。

そこで巨大な仏像の並び立つ観世音寺の収蔵庫に入場し、連れと二人だけの好条件で、歴史を経てきたお仏像たちと対面することができた。

度重なる災害で創建時の堂宇も仏像も失われたのだが、今なお多くの重要文化財の仏像が残っている。収蔵庫の2階に上がると、そこに馬頭観音を中心にして諸像が並び立っている、正に巨像の殿堂である。

治歴二(1066)年の講堂本尊・聖観音坐像と延久元(1069)の丈六十一面観音像が古いが、馬頭観音像は大治年間(11261130)に造られている。藤原中期から鎌倉初期にかけて次々と巨像が造立され、近年まで講堂に安置されていたのである。

観世音寺の馬頭観音像は、唯一例だという四面八臂の像で、しかも丈六の巨像である。馬頭観音は畜生道の苦を救う観音、顔は忿怒の相に現される。この像の正面の顔はむしろ怒りと悲しみと苦しみを融合させた表情だ、と谷口氏は述べている。私も対面してみて、現代的な見方からも、渋く複雑な魅力を湛える表情である、と感じた。それに加え合掌する両腕、その下軽く腕を曲げる二臂、優雅に垂れる衣などが、偉大なゆるぎなさを醸し出していて、訪ねてきてよかったと感じた。

馬頭の両脇を固める石造の狛犬一対は、中国宋代に源流があると言われる造形で、一見剽軽な表情と安定感の双方を感じさせ、これも魅力的であった。

 初日によく歩いたせいで足に疲労が溜っていて、この日もよく歩いたので政庁跡や水城跡、国分寺跡などを訪ねるのは諦め、戒壇院見学を最後に西鉄・都府楼駅に出て天神駅へ、そこからホテルに戻った。夜は目を付けていたホテル脇の「大衆さかな市場」という店。さつま白波を取り、カワハギのお造りや明太子の天ぷらを味わい、焼きラーメンで〆た。

 註  :  お仏像に関しては撮影が禁じられていたので掲載できなかったが、you tube で 福岡県 観世音寺 馬頭観音 で検索すると、すばらしく親切な動画を鑑賞することができる。 






大宰府訪問(天満宮)

 1010日、早起きして2階のビュッフェで朝食、その後大宰府を訪ねることにした。ホテルから最も近い「福博であい橋」で那珂川を渡り、博多の中心部の天神に入って行った。アクロス福岡や福岡市役所が天神中央公園に面して建っている。

IMG_0110.jpgアクロス福岡

IMG_0070.jpg国体道路側から見る市役所

 

  

  国体道路と下に天神地下街がある渡辺通りの交差点には、福岡三越と大丸の二つの百貨店が建っているが、三越の方の2階レベルに西鉄福岡(天神)駅がある。
  西鉄大牟田線に乗り、二日市で乗り換えるのだが、30分ほどで大宰府駅に着く。通勤・通学の流れとは反対方向で空いていたが、途中で大宰府に向う遠足の小学生が乗って来て賑やかな車内になった。  大宰府駅脇の案内所で順路を確かめて、天満宮に向った。

 IMG_0074.jpg参道を小学生たちと境内に

  

IMG_0079.jpg鳥居をくぐり左折して心字池

渡る二つの太鼓橋に向う手前の延寿王院の門に、日本の活け花と雰囲気の違うオブジェがあった。赤バラが球体に纏められ、新鮮だった。橋を渡った後に休んだ絵馬堂で巫女さんに教えてもらったが、デンマーク人アーティスト ニコライ・バーグマン作のフラワー・アレンジメントだった。

IMG_0082.jpg初めの太鼓橋から池の向う岸立つ樟の大木を見ると、面白い形をしていて、太い枝を切り落した跡が見られた。

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IMG_0089.jpg境内に入って強く印象付けられたのは、そこかしこに枝を広げる樟の巨木だった。

IMG_0088.jpg 絵馬堂から楼門を見る

IMG_0101.jpg楼門を過ぎると御本殿

 
 御本殿に参った後は、手水舎の脇を宝物殿、文書館を左に見つつ国立博物館の入口に向って行く。 

IMG_0092.jpg 文書館入口に又バーグマン作品、「大宰府天満宮アートプログラム」の一つの試みで、彼の先端的アート『伝統開花』個展の作品を、境内各所に展開していたわけである。

 学問・文化の神・菅原道真公を祀り1100以上の伝統を受け継ぐ宮の境内に北欧の感性を受け入れ、日本の自然素材を使った新しい空間造形を確かに提示していた。訪れる人々に新鮮な感動を与えてくれる評価すべき試みと感じた。

           IMG_0098.jpg

 さて、梅の樹林が囲む東神苑に到り、そこから九州国立博物館に入って行くエスカレーターに乗る、という設えになっていた。

 国博では丁度 台湾の故宮博物館の神品至宝展が催されていて長い行列ができていたが、パンフレットを見てもあまり心を惹くような内容とは思えなかったのでパス。 常設の文化交流展示室「海の道、アジアの路」を覗き、レストランで昼のランチを摂って降りてきた。常設展の内容も、教科書的な意味では参考になる所もあったが総じて退屈で、建物も含めて期待に添わないものだったと言わざるを得ない。

 西鉄駅前に来た道を戻って行くと中洲ふくやの直営店があったので、家で消費する分を送って貰うことにした。

  次の観世音寺には、駅前から車で向った。 ―以下、続く―


博多、大宰府 行 (博多一日目)


    109日から11日の三日間福岡に居た。8月の初めだったか、わが国へのパラディオ紹介に功のあった福田晴虔と久しぶりに語り合ってみたいと思った。大学を出て以来違う道を歩んで来たため、本の贈呈などはあってもゆっくり話す機会を持てなかった。

 それと、彼がいま住む博多の町は禅が日本に広まる拠点であったし、近くの大宰府は筑紫歌壇を盛上げた山上憶良や大伴旅人そして菅原道真が住んだ所だし、歴史まちづくり法が適用されている町で国立博もあるし、と理屈を重ねて秋に訪ねることにしたのだった。

 初日は中洲のエクセル東急に昼過ぎに入って福田君と落ち合い、近くの櫛田神社から筥(ハコ)崎宮、その先のネクサスワールドへと足を向けた。

 博多の街は九州一の活気ある現代都市であるので、町の空閑地・緑の部分に関しては歴史的な社寺の境内が役を担っているようだ、とは、11日に訪れた臨済宗聖福寺・承天寺そして博多大仏の東長寺なども含め、理解した。

博多祇園山笠の櫛田神社 IMG_0056櫛田社.jpg 境内

 

 

        IMG_0059筥崎宮.jpg 日本三大八幡宮の一つ筥崎宮・・・ 

それから、那珂川を中心とする大小の河川が町空間にゆとりを与えている、と受け止めた。

さて、20年以上経った香椎浜にあるネクサスワールドだが、磯崎新がコーディネートし、世界各国の建築家が参加して創られたマンションエリアである。案内してくれた福田君も九大に赴任した頃マーク・マック棟に住んでいたので、中身の濃い説明を聞くことができた。


交通量の多い道路に面する低層のレム・コールハウス(蘭)棟―左側―並木に隠れて見え難いが、と

IMG_0061クールハース.jpg

マーク・マック棟―右側黄色い建物  これら2棟は、福田君によれば定着度が低い住棟ということだった。

日本建築学会賞を受賞したコールハースだが、彼の取り柄は、良い実体空間を持つ建築にするより、メッセージ性の強いデザインを発信する方にあったことが判る。

日本に来て、わが国固有の石まがいコンクリートの打てる型枠を使い、その上下階には現代普遍的なカーテンウォールを使って日本での現代建築を表現してみた。しかし、生活の器としては平面計画が適切でなければ人々が喜ばず、そこら辺にずれがあったのであろう。

マーク・マック棟は福田君見立てでは、戦前にブルーノ・タウトがベルリンの共同住宅で試みた色使いへの参照があったようだ。しかしプランで、今の日本人の生活にフィットするものが無かったのだろう。

クリスチャン・ド・ポルザンパルク(仏)棟 


IMG     ポルザンパルク.jpg

 

 

日本人には珍しいと感じられる、異種文化が融合した中庭や外壁を持つデザインで、高い年齢層の住民が住み定住率は高いという。しかし、離れの棟は面白いが空家だという。壁面にはヨーロッパの石打込み壁のようなペイント処理を施している。

 スペインの建築家オスカー・トゥスケによる住棟は、日本で多い片廊下型の住棟とは全く趣が異なる建築で、コンクリート建築特有のスケールよりも細かく刻んだ外観表現を持ち、組積造建築に見られる尺度を見せている。これはこれでまた一つわが国に受け入れられる行き方のようで、人気のある住棟ということである。

IMG_0065.jpgオスカー・トゥスケによる住棟

 

最後はネクサスワールド最も人気あるスティーブン・ホール(米)棟 先ずはよく紹介される道路側の外観

IMG_0068.jpg

そして裏側の壁面表現 IMG_0067.jpg

 

打放しコンクリートの飾り気のない表現で、コルブジェ風な開口処理が見られる、私には好感が持てた。

この住棟には建築家が結構住んでいて、近隣の濃密な付き合いがあり、パーティなどもよく行っているという。オフィスに使用されている住戸もあると聞いた。S.ホールは幕張のプロジェクトにも参加しているが、まじめに面白みの有る空間創りに集中しているのがよく判る、上手な建築家である。そうした創作態度・才能が、いつも好感度の高い建築を生み出していると言える。


 香椎浜では、私も長年携わり手がけてきた共同住宅・住宅地の見学だったので、身が入ってしまい疲れも出てきた。第一日はこの辺で締めることにし、その後石城町の福田君手配の新三浦に乗り付け、水炊きのご馳走を堪能し、ホテルへと戻った。



 

 








霊山居 絵のある所

 今日はわが家の絵のある壁面、コーナーなどを載せてみる。

 1枚目はベッドルームのMoving wall。 大野健一さんの富士山の絵ハガキが小泉淳作画伯のシーラカンス図の下、葉祥明さんの絵カレンダーの右に貼ってある。色合いがよく合った。

 2枚目は本棚のある壁だが、フジタの版画を右下に立てかけてみた。

 最後に、仕事場の空間を出すとすればプリンターのあるコーナーとなる。今道子さんの写真が多い。

IMG_0049 B.room.jpg

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Vivaldi 四季を聴いて&高座教会コンサート

 きのう火曜日の夕刻、きららに行きヴェネツィア室内合奏団の演奏で四季全曲を聴き、味わってきた。30数年前何かと困難な事が重なっていた頃、イ・ムジチのLPを手に入れ朝からよく聴いていた。

きのうのコンサートでは、イタリーの楽団員たちの闊達な演奏スタイルのお蔭もあって温かい気持を持って聴き終え、その後蕾の会がアレンジしてくれた松原庵のディナーで、若い皆さんと楽しく話し合えて、良い1日を持てた。


 今年前半の南林間高座教会の仕事、そしてドイツから来たパイプオルガンの演奏会、引続く御成小講堂の教室棟への機能転換の提案のまとめ、裏駅の小林ビル用途変更の計画など、またまちづくり関係では、都市マス見直しの協議会や交通計画委員会などに参加したため、この夏の時間はツルツルと経ってしまった。10月中旬には博多・大宰府を訪ね、福田晴虔君と久しぶりの話を楽しんできたいと考えている。
 昨日のコンサートは何やら、老年建築家のシャッフルとこれからのキッカケになったような気もする。  催しの企画努力をされた、長谷の蕾の家の存在を知ったことも収穫だった。

 昨日の催しの写真などはおいおい紹介されて出てくるだろうと思うので、ここでは8月に聴きに行った高座教会のコンサートで写してきた写真を載せておきたいと思う。後ろの2枚はパイプオルガンの位置が分かるように、開始前に2階席から撮ったものである。

IMG_0048高座教会P.O.コンサート.jpg

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