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ドゥルーズ・ガタリから「リゾーム:Rhizome」他 (続)

 以下「ドゥルーズ 流動の哲学」(宇野邦一)講談社、B「現代思想」のドゥルーズ=ガタリ総特集 青土社。

 

「リゾームとはなにか」:『リゾーム』という一冊の小さな書物が1976年に刊行され、日本語でも豊崎光一訳によって広く読まれた。日本へのドゥルーズ=ガタリへの関心は、これによって急激に高まった。このテクストは、わずかな変更を経て『千のプラトー』の序文となる。「リゾーム」(根茎)とは、タケやハスやフキのように横にはい、根のように見える茎、地下茎のことである。「リゾーム」は「樹木」と対立する、と彼らは言う。(以下、前ブログの「リゾーム」の解説につながる) (A)

 

『アンチ・エディプス』から『千のプラトー』へ:――それにしても『千のプラトー』は文学なのでしょうか。この本には、きびすを接したいくつもの領域の多様性が見られます。民族学、生態学、政治、音楽、などがそれです。この本はどこのジャンルに入れることができるのでしょうか。

ジル・ドゥルーズ「哲学、ですね。この言葉の伝統的な意味で、哲学と言うほかなさそうです。絵画とは何か、と問うてみるときに、答えははわりと簡潔なものです。画家というのは、線と色彩の秩序のなかで創造行為をおこなう人のことです。さて、哲学者の場合も同じです。哲学者は、さまざまな概念の秩序のなかで創造行為をおこなう人であり、新たな概念を作りだす人のことです。もちろんそこには哲学の外に位置する思考もあるわけですが、諸概念の特殊形態のもとでではありません。  これらの概念は、ありふれた生活、日常的な思考の流れに作用をおよぼす特異なるものなのです。『千の高原』では、さまざまな概念にたいする幾つもの試みがなされています。リゾーム、平滑空間、現前性、動物的生成変化、抽象機械、ダイアグラム、などがそうです。フェリックス・ガタリがこれら多くの概念を考え出し、ぼくも哲学の立場から見解を同じくしたわけです。……組みこみという観念は行動という観念とおきかえうるものであり、この観念に大しては、自然文学という弁別がもはや当てはまりはしない、と。行動というのは、ある意味では、なおも輪郭であるにとどまります。これにたいして組みこみは、音、色、身振り、姿勢といったまるで異質な成分、それに自然や人為などをひとつにすることなのです。つまり、さまざまな行動をおこなっている「存立」の問題です。存立とは、じつに特殊な関係性のことで、論理的とか数学的というよりも、もっとずっと物理的な関係です。どのようにして事物は存立をつかみとるのだろうか。まったく異なった事物のあいだには、強度な連続性があるはずです。ベイトソンから「高原(プラトー)」という語を借りたにしても、それはまさしく強度な連続性のこの圏域を指し示すためなのです。…… この本は、ぼくたちに多くの労働を要求したものですが、読者にも多くのことを要求しています。 カトリ-ヌ・クレマンとの対話 (B)

 

『アンチ・エディプス』への序文(ミシェル・フーコー):私は、『アンチ・エディプス』を倫理の書と呼びたい。長いフランスの歴史のなかではじめて書かれた倫理書、と。人はいかにしてファシストにならずにすませるか、それも(とりわけ)自分自身を革命の闘士と信じている場合に。我々は自分の言動から、自分の心情や快楽から、いかにしてファシズムをとりのぞくか?……もし私が、この偉大な書を、日常生活のマニュアルもしくはガイドにしようと望むなら、私は、つぎのようなかたちでその原則を要約することになろう。

 統合と全体化をめざすあらゆるパラノイアから、政治活動を解放せよ。

 分裂増殖と対置(ジャスタポジション)と不連続によって、行動と思考と欲望を発展させよ。このとき、下位分割化とピラミッド的位階構造化にたよってはならない。

 否定的なるものの古きカテゴリー(法・限界・去勢・欠如・空白)への忠誠を撤回せよ。西洋の思想がかくも長きにわたって、力の形態としてまた現実への接近法として、聖化して考えてきたのが、この否定的なるものだ。肯定的で多様なるものを、画一性でなくて差異を、統一でなくて流れを、体系ではなくて動的な組みこみを、優先させよ。能産的なるものはすべて、定住的ではなく遊牧的(ノーマディック)であると信じよ。

 闘争的であるためには陰うつでなければならぬと考えるな。……そして政治的介入をおこなう対象たる諸形式と領域を多様体(マルティプライア)にするような分析を使用せよ。

 哲学でこれまで定義されてきた「個人」の権利なるものの回復を、政治運動に要求するな。個人は権力の所産にすぎない。必要なのは、多様化とずらしによって、多岐にわたる接合を、「脱個人化」することだ。集団は、階層化された個人個人を結びつける有機的靱帯であってはならず、脱個人化の恒常的産出体であらねばならない。

 権力に魅惑されるな。

 ……彼ら自身の言説が帯びてしかるべき力‐パワーの作用までも、中立化せんとつとめたとさえ言えるだろう。本書のいたるところに散りばめられた、遊びと計略がそれを物語る。…… B


ドゥルーズ・ガタリから「リゾーム:Rhizome」他

 昨年10月頃から暇を見つけ、庭の手入れをしている。今年に入っては築47年の家の諸々の不具合の改修も始めた。玄関ホールからテラスに出る開口をアルミ戸に替える際にはホールを狭くしていた椅子を二つテラス用に外に出すことにした。イームズのシェルチェアだが、裂けかけたビニールの上張りを剥そうとしたらクッション材の発砲ウレタンをFRPシェルに付けていた糊を剥ぐのに結構手間取った。カワスキを使って徐々にはがし終えたところである。

 それよりも、庭作りでのアズマネザサの地下茎との格闘はさらに大変だった。我慢強く、生えた笹を掘り起しペンチも使って引き抜いて行き、笹の繁茂した庭に、人の領域の部分を拡げてきた。

背部分以外糊の取れたイームズチェアー.jpg 

庭の花畑.jpg 

 

 そうしている際には、ふと地下茎=リゾーム、Rhizome という言葉が浮かんだりしていたため アマゾンで「ドゥルーズ 流動の哲学」(宇野邦一)を求め、図書館には「現代思想」のドゥルーズ=ガタリ総特集を予約しておいた。両書が揃ってからしばらく経ったので、読んだ中から記録しておきたい処を書き写しておくことにする

 

「リゾーム」:「樹木」は我々が秩序と呼ぶもののあらゆる特徴をそなえる。幹あるいは中心があり、それを支える根、幹から広がる枝は対称的に広がり、中心(幹)からの距離によって定められる序列がある。

 これに対して、「リゾーム」には、全体を統合する中心も階層もなく、二項対立や対称性の規則もなく、ただ限りなく連結し、飛躍し、逸脱し、横断する要素の連鎖があるだけである。……人間の脳には一つの「樹木」的構造がしっかり植え付けられているようだが、脳はまるで「雑草」(リゾーム)のような配置を含んでいるからこそ、新しい事態に対応し、新しい思考を生み出す。言語もまた、チョムスキーの「生成文法」の図式が端的に示すように、樹木としてとらえることもできれば、さまざまな言語(国語、方言、未知の言葉、動植物の言葉……)の交点に立つ詩人にとってそうであるように、リゾーム状態を呈することがありうる。(A)

 

「プラトー」:『精神の生態学』のベイトソンは、バリ島の文化を研究しながら、そこでは母子間の性的な戯れや男同士の争いに、「奇妙な強度の静止」が見られることを指摘している。「一種の連続した強度のプラトーがオルガスムにとって代わる」。

 一点に集中する突出した快楽や暴力ではなく、はりつめた状態(プラトー、つまり高原)だけがあって、それは頂点をもたず、何らかの目標や終局も持たないようである。……『千のプラトー』は、様々なプラトーについて語っているが、同時にそれ自身プラトーとして書かれている。或いはプラトーによって構成される本、様々なプラトーを実現する本であると言える。「……諸々のプラトーからなる本の場合はどのようなことが起こるであろうか?一つのリゾームを作り拡張しようとして、表層的地下茎によって他の多様体と連結しうる多様体のすべてを我々はプラトーと呼ぶ。我々はこの本をプラトーのように書いている。それをさまざまなプラトーによって構成した。」(A)

 

差異と反復』とその分身『意味の論理学』:『差異と反復』(博士論文)を提出した1968年に、ドゥルーズはまだリヨン大学で教えていた。この年にはフランスの政治が大きく揺れ、後にも世界中で様々な反響を引き起こすことになる。……1969年には『差異と反復』の「分身」と言っていい書物『意味の論理学』を刊行した。……ミシェル・フーコーは、1970年に『差異と反復』を『意味の論理学』とともに書評して、「いつの日か、世紀はドゥルーズ的なものとなるだろう」と賛辞を寄せた。

・主体と客体から解放された理論彼は西洋哲学の伝統的な設問を綿密に腑分けし、そこに一貫する幾つかの前提や傾向(同一性、主体、表象、理性、二元論、超越性……)を根底から批判し、現代の思想的要請に答えようとした。フーコーは「我々はおそらく、初めて、全面的に主体と客体から解放された思考の理論を獲得している」とこの本がなぜ画期的なのかを正確に定義している。……『差異と反復』、『意味の論理学』は、二十世紀の思考を襲ったある根本的な転換を見つめ、その転換を可視的にし、さらに押し進めようとする試みであった。ドゥルーズは、そのように構築した「思考の理論」の延長戦上に、やがて新しい社会性と政治学に向けられる思想を創りだす。

「哲学の書物を、長い間続いてきたような書き方で書くことは、やがてもうほとんど不可能になるだろう。我々にとって哲学史は、絵画においてコラージュが果たしたのに似た役割を演じなければならない。」

……哲学に本質的な意味で演劇的なものを注入し、思考の演劇と言っていいような哲学を実践したニーチェの傾向を、ドゥルーズは単にレトリックでも、メタファーでもなく、思考の本性にかかわるものとして受け継ごうとする。……(A)

 

  さて、 続きはまた、書くことにしよう。 

 



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