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歳の暮 身辺雑記

  この一年は次々と事を始末することを求められ、あっという間に過ぎてしまった感がある。今月に入って、東京にある共同住宅のリニューアル工事の契約を済ませたが、これからオーナー宅の改修設計をまとめなければならない。 

 一方鎌倉では、所属する会の総会や忘年会の幹事を勤めているため二つの会の催しを済ませた。その他アート関係の暮の展示会や鑑賞会などもある。 さらにカラオケスナックのつきあいもある。ことしは、スマホにしたお蔭で、ユーチューブを気軽に聴くことが出来るようになって、中島みゆきをはじめいろいろ 懐かしい「りばいばる」や 紙ふうせんの「冬が来る前に」などに付き合っていた。

 11月の勤労感謝の日に、何と!上の娘が結婚式を挙げた。新居は隣の町でまだ何かと用があり、家にはちょくちょく顔を出しているが、家族が三人に減った今月の家の中には、 何かスカスカした感じが漂っている 

 そろそろ月なかにもなるので、昨日は、年賀状の準備を始めた。これも、スマホフェイスブック・インスタグラムという線に今年の後半は熱中していたので、材料揃えが楽になったがする じつは、江ノ電の線路写真2葉と、虚子の句、そして70代後半へとかかる私の感慨、娘の結婚報告などを載せたサンプルは昨日中に出来てしまい、あとはもう 推敲とプリントだけになっている

線路写真 1.jpg  

  このように個人的な情報機器が便利に使えるようになった反面で、プリンターを含めそうした機器の利用は、面倒至極であり鬱陶しくなる。

 銀行利用などにも、ウエブサイトの利用が求められたりして面倒くさい時代になったものだと思う。

  さらにまた、今年は高齢ドライバーたちが交通事故を盛んに引き起こしたため、免許更新に高齢者講習が厳重に求められるようになって、たまらない。来年2月の誕生日前に受けなければならないのだが、近所の教習所はもう一杯だったので、長後の先の教習所で1月の末に空きがあり、そこで受けることになった。

 

 フェイスブックに、団まりな の「生命をまとめているものは」という論考を紹介したが、はしょり過ぎて分かりづらかったためか、「いいねの 読んだよ!サインは 思ったより集まらなかった。15年以上も前に「現代思想」-生命論の未来-特集に入っていたもので、今でも新鮮な論だと思ったのだったが。

 の論考の最後には、我々の身体をつくっている細胞=いのち の出来の良さに比べ、人類の認識の圧倒的な肥大に対して このあとの世界は対処のしようが無くなっていくのではないか? という危惧感が語られている。

  もう一つ」この論で面白く重要な指摘は、細胞をまとめている構造がバックミンスター・フラーが提唱したテンセグリティの構造である、としたところだった。


エド・マクベイン 87分署シリーズ「キス」(HAYAKAWA BOOKS)

  老人の体操の会が使う腰越支所の3階に市の腰越図書館がある。ここはミステリ関係が充実している。会の始まる時間より早く着いてしまったとき3階に寄り、87分署シリーズのこの本を借りた。しばらく読み出せなかったが返却日が近づいて読み終わったところである。このところ何やかやで忙しかったが、息抜きにマクベインはうってつけなのだ。この本は発行後20年以上経っているので全くのセカンドハンド読書である。

 恵まれた環境にあるカップルの妻がとつぜん命を狙われる状況に陥る。舞台は架空の街アイソラ、その87分署のスティブ・キャレラとマイヤー・マイヤーが事件の謎に取り組む。街はアメリカの大都市の例にもれず、さまざまな住民が混在して住み、そこここに荒廃が目に付き、また人種間の問題が露呈されている。

 警察官も地域社会の一員として、それらの矛盾に対して夫々の多様な対処のし方を身に付け生きていて、それぞれに個性的である。日常の何気ない瞬間にも、男と女の感情がストレートに顕われ出てくる。社会の何処にも、その世界なりの掟、組織論理などがあること、などもよく描かれている。

 話はキャレラ自身が取り組む事件と、彼の父親が殺された件の裁判とが並行して描かれて行くが、後者の描写でアメリカの陪審員裁判の実態が明らかにされ、読者の理解を容易にしてくれる。そこでは、陪審員団の構成も白人・黒人・ヒスパニックなどに分かれて、裁判にも強い影響があるので、検事も弁護士も周到な演技力が要求され、裁判は劇場的な様相を呈する。判例が重んじられるわが国の裁判と異なり、はなはだ予測し難いものとなる。検事と被疑者、弁護士の間に刑の軽重を予測しつつの取引も生じてくる。

 いっぽう本筋のキャレラらの捜査でも、情報の取得方法の進歩とともに、情報提供者のや警察側と裏社会の交渉・貸し借りなどが明らかにされる。これらの、刑事裁判の様相や警察活動は、多人種国家であるアメリカ場合、我が国に比べはるかに複雑で入り組んでいるが、犯罪も高度化しまた衝動的になっていく世界・社会を考えると、参考になるところがある。

 以上のような舞台で話は進んで行くが、犯罪捜査や訴追に当っての当事者たちの信頼関係や、悪智慧の限りない進展に対する正義側の連帯や信念なども、随所に描かれていて読者を引っ張っていく。

 そうして最後の最後では、読者の予想をくつがえす結末も描かれて、ミステリ趣味がまた満足させられる。

短いがミステリ・エンターテインメント本の紹介としては以上ぐらいでよいであろう。


山折哲雄「伝統を考える」 (『夕焼小焼』の歌)

 仕事場にしている玄関ホールれ迄のまちづくりや建築の書類がたまって、足の踏み場もなく在り処も不確かになってきていた。ここで家人が客を迎える話があるので、一念発起して断捨離を始めた。例によって役に立ちそうな書き物が多く難航したが、相当思いってミックスペーパーの梱包をいっぱい作った。

 整理している中に、版型から「学士会会報」のものらしい記事のコピーが幾つか出てきて、捨てがたく残す方に入れた。その一つが標題記事で、日本人のバックボーンに仏教的浄土思想が沁みこんでいる、と宗教学者の著者がきわめて情緒的に説いているものだった。―以下要約―

 

 「短調排除の時代」

 このごろの子供は子守歌にムズがるという投書を知り、これはTVが流す歌に短調メロディ(悲しみの旋律)が一つもないことと関係。→もしかすると現代の若者たちの心が大きく変わってきているのでは?悲しみの旋律を忘れた人間他人の心の痛みがわからない。

 子供の教育の場で、ブラームスやシューベルトの子守歌は採用されているが、日本の伝統的なものは全く追放されている。たして、日本の子守歌が持っている悲哀の旋律を排除する必要があっただろうか?調排除の時代と少年犯罪多発状況は、何らかの因果関係があるのではないか?

 

 「夕焼け信仰」

 関東一円の小中学生の中で、夕焼け空を見て心を打たれた経験がない子たちが43%もいたことを知り、明らかに最近の子供たちの感性が変わってきた、と感じた。

 柳田國男に子守歌の研究があり、そこに「親のない子は夕日を拝む 親は夕日の真ん中に」という歌が取り上げられている。昔から親のない子や親が働きに出ている子が、自らを慰めるため夕陽を拝み無意識に救いや慰めを求めていた。夕陽の真ん中に親のイメージが立ち上がってくるこの歌詞を柳田は非常に愛していたという。

 渥美清が亡くなり「男はつらいよ」シリーズが撮れなくなったころに、著者は山田洋次監督がポツリとつぶやくのを聞いた、「いままで53巻作り続けてきたが、そのすべての巻で必ず印象的な夕焼け空のシーンを入れてきた」と。山田さんも、夕日を拝む、夕日に感動するという日本人のメンタリティを大事にしてきたのが解った、という。

 以上までがこの記事のための前置きで、山折が「伝統を考える」というテーマになぜ夕焼け信仰の問題を持ち出したかについて、彼なりの物語があった。

 

 十数年以上前に東京で開かれた「日韓フォーラム」の会議後のパーティーで、彼は韓国の仏教学者の季先生から「私は日本人が非常にうらやましい。それは仏教が日本人の心の隅々にまで行き渡っているからです」と話しかけられ、一瞬居をつかれた。日本人は無神論者で世俗的な民族ではないか、と考えていた山折は、季先生の次の言葉「あなた方はよく、『夕焼小焼』という童謡を歌うでしょ。あの童謡のなかに仏教の根本精神のすべてが歌いこまれている」。を聞いて、卒然と悟った。

 夕焼小焼で日が暮れて/山のお寺の鐘がなる/

 お手々つないで皆かえろ/烏と一緒にかえりましょう

中村雨紅(18971972)が、唯一後世に残した童謡の詩である。日本人の多くはそれぞれに、夕焼け空を見た時の感動体験を持つが、それらはいろいろなシチュエーションで感じられたであろう。文学作品の中でも、さまざまに夕焼け空が歌い続けられてきた。例えば三木露風作の「赤蜻蛉」も「夕焼小焼」と同じく、それ以後の十五年戦争の暗い時代に歌われ、日本人の心を慰めてきた。絵画の方でも、昔の狩野派絵師から大観・寒山まで、繰り返し夕焼け・落日の光景が描き続けられてきた。

 

 そこで山折の見解日本人は夕焼け空・落日の彼方に浄土をイメージした。仏教が日本に入って以降、人の死後の運命を深く考えた宗派が浄土教で、死後西方浄土に往生するという信仰であった。仏教の様々な思想のなかで、日本人に極めて多くの影響を与えたのは、この浄土信仰であった。この信仰は既に千年の伝統がある。落日を見て感動し、平然としていられなくなる、私たちのメンタリティの背後には、千年の伝統の浄土信仰があったのではないかと。大動乱などの際に深層意識の中に眠っている浄土イメージが表層に浮かんでくる、文化的遺伝子と言ってもよいがそれが伝統であって、その一つに落日信仰がある。

 

 中村雨紅は「夕焼小焼」の一行目を日本人の千年の歴史を思い筆を執ったのではないだろうが、二行目の「山のお寺の鐘がなる」に山折は、学問仏教だった奈良時代の仏教から民衆の生き方に影響を与えるようになった平安仏教、比叡・高野に道場を構えた最澄や空海の「山」の仏教、を思う。日本の仏教は山の仏教として成立した。山のお寺の朝・昼・晩の鐘の音は人々の暮らしを律し、また心に安らぎを与えてきた。

 

 三行目は「お手々つないでみなかえろ」だが、これは「子供たちよ、うちに帰れ」という呼びかけだが、それは同時に大人たちへのメッセージにも聴こえる。故郷を捨てて都会に出てきて、あくせく働いてきた。気がつけば頭は白くなり、心の中は荒れ果てている。「人間、本来帰るべきところに帰れ、わが心を耕せ」という大人たちへのメッセージにも聴こえる。陶淵明の「帰去来辞」は日本人に愛唱されてきたが、このは「帰りなんいざ、田園まさに荒れなんとす」で始まるが、こういう感覚は平安の人々の倫理観だったのだろう。しかしこの感覚は「夕焼小焼け」の童謡の中に依然として簡潔に表現されているのだ

 最後の「烏と一緒に帰りましょう」は、帰るべきところに帰るのは、人間ばかりではない。鳥も動物も一緒に帰るのだというメッセージで、まさに「共生」の思想がしっかりと歌い込まれている。「共生、共死」それは無常観という仏教の根本思想ではないか。

 日本人が気付かずにいた「夕焼小焼」の底に流れていた宗教的遺伝子を、韓国の老仏教学者が私たちに教えてくれたのである。

 さてこの記事は木下順二の『夕鶴』にも触れて終わるが、そこまでしっかりと読みたい場合は、今は学士会会報」、山折哲雄「伝統を考える」 で探せばその号にたどりつけると思う。 


千のプラトー(ドゥルーズ・ガタリ)から

 前に載せたブログ文でも紹介したこの本は難解で読者に相当な忍耐を強いる。難しさが、多岐にわたる新しい概念の提示によるからか、哲学者が一般読者に正確におのれの考えを伝えたいために難しくなるのか、フランス語から日本語に翻訳する無理にあるものなのか?おそらくはみな夫々に、難解さにあずかっているのだろう。しかしながら、中に、結論だけ早く得たいと思うわれわれのような者を喜ばせる文章も、時々は出てくる。

 

  これらの生成変化(ドウヴニール:なること)のおのおのが二項のうちの一方の脱領土化ともう一方の再領土化を保証し、二つの生成変化は諸強度の循環にしたがって連鎖をなしかつ交代で働き、この循環が脱領土化をつねによりいっそう押し進めるのだ。そこには模倣も類似もなく、一個の共通のリゾームからなる逃走線において二つの異質な系列が炸裂しているのであり、この共通のリゾームは意味にかかわるどんなものにも帰属せず、従属もしない。レミ・ショーヴァンはこう巧みに言っている――「お互いにまったく縁もゆかりもない二つの存在」と。より一般的にいえば、進化の図式は、樹木と血統という古いモデルを放棄しつつあるのかもしれない。リゾームは一つの反系譜なのである。

 

 本と世界についても同じことが言える――本は根強く信じられているように、世界のイマージュなのではない。本は世界とともにリゾームになる。本と世界との非平行的進化というものがあるのだ。本は世界の脱領土化を確かなものにする。けれども世界は本の再領土化を行ない、今度はその本がそれ自体として世界の中でみずからを脱領土化するのである(本にその能力があり、なおかつ実際にそうできるならば)。

 

植物たちの智慧――たとえ根をそなえたものであっても、植物には外というものがあり、そこで(媒介する)何かとともに――風や動物や人間とともに、リゾームになる(そしてまた動物たち自身が、さらには人間たちが、リゾームになる局面というものもある)。「われわれの中に植物が圧倒的に侵入するときの陶酔」。

 

そしてつねに切断しながらリゾームを追うこと、逃走線を伸ばし、延長し。中継すること、それをさまざまに変化させること、n次元をそなえ、方向の折れ曲がった、およそ最も抽象的で最もねじれた線を生み出すに至るまで。脱領土化された流れを結び合わせること。植物たちについていくこと――手はじめに、継起する特異性の周囲に生ずる収束円が、限界内に位置し、かつ別の方向を向いた点をともなって生じるかどうかを見る』のだ。=わが家のの手入れ・形成をしてみると、二重鍵カッコ内の文章が実に感覚的に理解できる)

 

 書くこと、リゾームを作り出すこと、脱領土化によって領土を殖やすこと、逃走線をそれが一個の抽象機械となって存立平面全体を蔽うまで広げること。

 

 「まずきみの最初の植物のところへ行って、流れる水がこの点から発してどんなふうに流れるかを注意深く観察した。雨が種子を遠くまで運んでいったにちがいいない。水が穿った溝のあとをつけたまえ。そうすれば流れの方向がわかるだろう。そうしたら、その方向できみのからいちばん遠くにある植物を探したまえ。その二本のあいだにある植物はみなきみのものだ。もっと先で、そのあいだにあった植物が今度は自分の種子をまき散らすとき、きみはみずからの一本一本から発する水の流れにしたがうことによってきみの領土を殖やすことができるだろう。 

 

 音楽はみずからの逃走線の数々を、そのまま「変形する多様体」としてたえず成立させてきた。たとえ音楽というものを構造化し樹木化している諸コードをくつがえすことになっても。だからこそ音楽の形式は、その切断や繁殖にいたるまで、雑草に、またリゾームに比べることのできるものである。

 

 このあと、地図作成に関する考察が続くが、植物に関する下線を引いた記述は、概ね理解できるだろうと思う

 リゾーム化した社会に向き合うときに、採用すれば有効と思われる記述である。この記述が出てくるのは、本の冒頭=『千のプラトー』の、リゾーム の部分である。―それでも、これまでのリゾームに関する二つのブログ文は、今日紹介した文章の理解には、役だったのではないだろうか

 

 おそらく、本書を隅から隅まで読み切ることはないだろうが、取りあえず、これきりの内容で短い投稿を済ませておきたい。


沢木耕太郎『流星ひとつ』-結

  前ブログ(-2)の最後の台詞は、圭子のもの印象に残る台詞を選び次々記録してきたのだが沢木の、「切ったことが、口惜しいわけだ」という言葉に応えたものだった。このあと、幾つかこのブログに残しておきたい会話を記してから、沢木の「後記」に移ろうと思う。

 「あなたは、一度、頂に登ったよね。その頂には、いったい何があったんだろう?」  「何もなかった、あたしの頂上には何もなかった…そこには、もしかしたら、禁断の木の実というのかな、そういうものがあったかもしれないんだ。下の方で苦労しているような人には、ほんと涎がでるような実があったかもしれないの。でも、あたしには、とうていおいしい味のするものとは思えなかったんだよ。…」 「ものわかりのいい、いまふうの、いい女のふりをしてれば、幸せなときが長く続くかもしれないけど、でも、そんなわけには、いつもいかなかったんだ」  「男らしい考え方だ……」  「それ、褒め言葉のつもり?」  「最上級の、ね」  「あなたの引退をテレビで知ったとき、星、流れるって、思ったんだ」  「流れ星。あなたを、流星ひとつ、と声に出して数えてみたいような気がしてね」  「流れ星か……あたし、まだ、見たことないな」  「だって、あなたは旭川で育ったんでしょ…空は澄んでいたでしょ?」  「さあ……どうだったかなあ」   「あなたは、子供時代、何を見ていたんですかねえ」  「何も見ていなかったのかもしれないね」  「これだからなあ、ほんとに参りますね。インタヴュアーとしては……」  「それがあたしの子供時代だったんだから、仕方がないよ」  「このあいだ、札幌で仕事があったとき、友達とあって話したの。もう歌をやめようと思うって言ったんだ」  「彼女たちは、何と言ってた?」  「よかったね、純ちゃん、もう十分働いたんだから、今度は純ちゃんの好きなことしなよ、って。…仲よく暮していこうよ、って。よかったね、いいじゃない、って言ってくれた」「嬉しかったなあ、ほんとに」  「でも、帰らないんだろ?帰らないでどうするの?」  「ハワイに行くつもりなんだ」  「ハワイでどうするの?」  「勉強したいんだ……英語を習いたいんだ」  「…耳にとても気持ちがいいんだ。とにかくひとつのことに熱中して勉強してみたいから……英語が少しでもわかるようになれば嬉しいというぐらいだけど、いい機会だからハワイに行って学校に入って、やってみたいんだ」  「そいつはいい、ぜひ頑張るといい」  「ありがとう」  「あたしね、阿部純子と藤圭子ということで言えば、デビューするとき、藤圭子っていう名前をもらったとき、生まれ変わったと思ったんだ」  「そうだね、その二つの世界を往き来するなんて器用なこと、本当はできやしないんだよな」  「そうなんだ、だから、あたし、その二つのうち、どっちかといrば、藤圭子の方を大事に思いつづけてきたようなんだ・・・」  「とすれば、やっぱり、緊張した、あの藤圭子の煌きは、失われてしまうかもしれないな」  「それは違うよ、歌をやめても、キッチリと生きていけば、それが顔に出ると思うから平気だよ」  「そうか、それならオーケーだね」  「いま、かりに、あたしが煌いていたとしても、自分で駄目と思いながら、人に芸を見せているのはよくないと思うよ。やめるべきなんだよ」  「やめるとなると、さみしい?」  「十年もやれば、いいよね」  「そうだね。次の何かをまた見つければいいんだろうな」  「うん、そうする。また……何か……」  「それでいいさ」 と。そして、二人はインタヴューの終りを祝し最後のウォッカ・トニックを空ける。

 

 「後記」

沢木耕太郎は 大学を出てノンフィクションの仕事に就き、4年に1年ほど異国の旅に出た。日本に帰ってきた後は再びジャーナリズムの世界に戻りノンフィクションを書いてきた。このインタヴューの頃沢木は31歳だったが、ノンフィクションの「方法」にこだわっていた。初期の沢木はさまざまの国で人と会い、「ぼく」の感じたさまざまなことを書く、というスタイルを取ってきたが、やがて「ぼく」という一人称を捨てて、徹底した取材による三人称で書くようになった。その段階の仕事の後には取材というものの危うさや脆弱さが気になりはじめ、一転して 「私」の経験したものだけで書く方法をとるようになる。31歳の沢木は、その過渡期の時期にあって、「一瞬の夏」を朝日新聞に連載することになり、最終執筆を伊豆の温泉宿で書いていた。そこで、「藤圭子引退!」というニュースを目にした彼は、強い衝撃を受けた。その数か月前に偶然圭子と会っていた彼は、ぽつりと「もうやめようと思うんだ」と圭子が言うのを聞いていた。伊豆でニュースを聞いた沢木は、その際に問い損なった「どうして?」の答を手に入れたいと思い、知人を介してインタヴューの約束を取り付けた。その準備をし始めた彼は、ノンフィクションのまったく新しい書き方を試せるのではないかと思い出した。

 いっさい「地」の文を加えずインタヴューだけで描き切る。タイトルは『インタヴュー』とする。本のもととなるインタヴュー以後も、事実の正確を期し、また細部に膨らみを持たせるため、最後のコンサートの行われた十二月二十六日まで、さまざまなところでインタヴューを重ねたという。

 その過程で、彼は圭子が語る話に強く心を動かされるようになった。その引退の理由には、沢木がジャーナリズムの世界から離れたときの思いに共通するものがあった。

 この『インタヴュー』と名付けた作品は、当初の予定をはるかに超え原稿用紙五百枚近いものとなり、翌年の五月に入って仕上がった。

 しかし落ち着いて完成した作品を読み返した彼は、果たしてこれでよかったのか?という疑問を持った。これから先、藤圭子が芸能界に戻って、歌うようにならないとも限らない。その際、この『インタヴュー』が枷にならないだろうか? 藤圭子という歌手が芸能界を去る本当の理由が、会話体だけで書き切られている

だが彼女の純粋な女性の姿を本当に描き得たか?ノンフィクションの「方法」のために、引退する彼女を利用しただけではないのか?

 沢木は出版社の担当編集者らに相談した。彼らは、ぜひ出してほしい、しかし沢木さんの迷いもよく分かる、そういう迷いがあるなら、発表はやめた方がいいかもしれない、いつか、きっと発表できる日が来ると思う、などと言ってくれた。そこで、彼は、手書きの原稿を一冊の本にしてもらい、『流星ひとつ』とタイトルを変えて、「長い時間付き合ってもらい、あなたについてのノンフィクションを書き、出版させてもらおうとしたが、出来上がったのはこの一冊だけでした申訳ないが、この時点での出版は断念しようと思います」 と、アメリカに渡った藤圭子に送った。彼女からは、自分は出版してもいいと思うが、沢木さんの判断に任せるという返事があった。

 1979年の年末にハワイに向った藤圭子は、翌春にはアメリカ西海岸に渡り、バークレーで英語学校に入っていた。その後沢木のもとに日常生活を綴る圭子の手紙が届き、秋にかけて友達とニューヨークに車で行くことなどが知らされた。追伸には「流星ひとつ」のあとがき、大好きです。とあり沢木は、いかにも「青春」の只中を生きているような幸福感あふれる内容、と嬉しく思ったという。

 やがて圭子は知り合った宇多田照實氏と結婚し、光を得た。宇多田ヒカルは音楽界にデビューし、圭子に勝るとも劣らない「時代の歌姫」として一気に「頂」に登りつめた。沢木は、藤圭子が望んだものの多くを手に入れたらしいと喜んだ。

 ところが八月二十二日の昼前、新宿のマンションからの投身自殺、沢木は圭子が精神の健康さを持っていたと思っていたため信じられなかったが、時も経っているので事実を受け入れるより仕方がなかった。

 その後、宇多田ヒカルの「コメント」が公式サイト上で発表される。

私の母は自ら命を絶ちました。 様々な憶測が飛び交っているようなので、少しここでお話をさせてください。 彼女はとても長い間、精神の病に苦しめられていました。その性質上、本人の意志で治療を受けることは非常に難しく、家族としてどうしたらいいのか、何が彼女のために一番良いのか、ずっと悩んでいました。 幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました。症状の悪化とともに、家族も含め人間に対する不信感は増す一方で、現実と妄想の区別が曖昧になり、彼女は自身の感情や行動のコントロールを失っていきました。私はただ翻弄されるばかりで、何も出来ませんでした。 母が長年の苦しみから解放されたことを願う反面、彼女の最後の行為は、あまりに悲しく、後悔の念が募るばかりです。 誤解されることの多い彼女でしたが とても怖がりのくせに鼻っ柱が強く、正義感にあふれ、笑うことが大好きで、頭の回転が速くて、子供のように衝動的で危うく、おっちょこちょいで放っておけない、誰よりもかわいらしい人でした。悲しい記憶が多いのに、母を思う時心に浮かぶのは、笑っている彼女です。 母の娘であることを誇りに思います。彼女に出会えたことに感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。」

 さらに離婚をした元・夫の宇多田照實氏の「コメント」が発表されるに至り、「謎の死」は、精神を病み、長年奇矯な行動を繰り返したあげくの投身自殺、という説明で落着することになった。

 と、沢木は感じて、彼の知る圭子が、それ以前の全てを切り捨てられ、あまりに簡単に理解されていくのを見るには忍びなくて、新潮社の関係者に残ったコピーを読んでもらう。内容も、方法も少しも古びていません。新鮮です」 「これを宇多田ヒカルさんに読ませてあげたいと思いました」という答を得て、出版するに至った。 ということで1.で紹介した文章「後記」末尾記が綴られてこの『流星ひとつ』は〆られている。[発行日:2013年10月10日]


沢木耕太郎『流星ひとつ』-2.

 このころ、NHK紅白の選に漏れて、圭子は荒れた。「…だったらこっちにもNHKを拒絶する自由があるじゃない。そうしたら、事務所の人やレコード会社の人がみんなで来てね。…そんなことをしたら芸能界で生きていけない、と…こっちから尻尾を振っていく方がよっぽど耐えられないよ。…そこで爆発してしまったわけ。どうして、あなたたちには意地っていうものがないの、って」  「あたしがマネージャーだったら、そうするね。藤圭子という歌手の性格をよく知っている、頭のいいマネージャーだったら、そうしてたね。あたしは、そこでガッカリしちゃったの。ああ、みんな、その程度の考え方なのか、その程度の仕事なのかって」  「どんなことでも筋は通すべきだと思うんだ」  「たとえ、それでメタメタになっても?」  「そんなことで駄目になるようなんだったら、その人に力がなかったということだけだよ」  「それにしても……仕事の話になると、ほんとにきつい顔になるね、あなたは」  「えっほんと?」  「うん、ちょっと、怖いくらいの感じになる」  「フフフッ」  「しかし、紅白歌合戦自体には、何の魅力も感じなかったのかな、あなたは」  「うん」  このあと沢の井氏から離れて新しい事務所に入ったが、行きづまりは解消できなかった。

 沢木は阿木燿子・宇崎竜童のコンビによる〈面影平野〉を、すごくいいと思ったが、ヒットしなかったと話し、なぜヒットしなかったのだろうと聞く。それに圭子ははじめ「わかんないよ」と答えるが、「あたしにはね、あの歌がそんなにいいとは思えない」「わからないんだよあの歌が」「…すごくいい詞だと思う。やっぱり阿木燿子さんてすごいなって思う普通の人には書けないと思う。…」「心がわからないの」と述べる。  「心?」  「その歌が持っている心みたいなものがわからないの、…あたしの心が熱くなるようなものがないの。…自信を持ってうたえないんだ。…結局、わからないんだよこの歌が…」  「そうか、〈面影平野〉はあなたの心に引っ掛からなかったのか」  「そうなんだ、引っ掛からなかったの。だから、人の心に引っ掛かかるという自信がないままに、歌っていたわけ。それでヒットするわけがないよね」…「仕方ない、うん」 と沢木は引き下がるさらに圭子「…やっぱり、藤圭子の力が落ちたから、かもしれないんだ」  「もう……昔の藤圭子はこの世に存在してないんだよ」  「どういうこと?」  「喉を切ってしまったときに、藤圭子は死んでしまったのいまここにいるのは別人なんだ。別の声を持った、別の歌手になってしまったの……」  「無知なために……手術をしてしまったからさ」 と重大な発言があって、この章は終わる。

 

 「五杯目の火酒」では喉の手術をした経緯、感慨などが詳しく記される。デビューして五年目ぐらいにどうしても声が出なくなり、忙しいスケジュールを空けて入院し喉ある結節を切除した。 「……声は昔からよく出なかったんだ。…ふだん話すときもほとんど声を使わなかった・・・もったいないんだよ。人とおしゃべりする声があったら、歌う声に残しておきたかったから。…無口だと思われていたのは、それもあると思う。…出ないのが普通だったんだ。その声を貯めて、それを絞り出していたんだよね。だから、一週間休んで出なくなったときも、そんなに慌てることはなかったはずなんだ。すこし休んで、また声を貯めれば、それでよかったんだよね。ところが……切っちゃったんだよね。早く楽になりたいもんだから、横着をして、切っちゃったわけ」  「思うんだけど、あたしのは結節なんかではなかったんじゃないだろうか」  「その手術が、あたしの人生を変えたと思う。…引退ということの、いちばん最初のキッカケは、この手術にあるんだから……」 手術後のレコーディングで、「…いざ歌い出したら、高音のところで、針がとびそうなくらい振れすぎちゃったんだよ」  「みんな、おかしい、おかしい、と言い出して、もう一度やるんだけれど、同じなんだ。高音が、澄んだ、キンキンした高音になってしまっていたわけ。あたしのそれまでの歌っていうのはね、意外かもしれないんだけど、高音がいちばんの勝負所になっていたの。低音をゆっくり絞り出して……高音に引っ張りあげていって、……そこで爆発するわけ。そこが聞かせどころだったんだよ。ところが、その高音が高すぎるわけ。あたしの歌っていうのは、喉に声が一度引っ掛かって、それからようやく出ていくとこに、ひとつのよさがあったと思うんだ。高音でも同じように引っ掛かりながら出ていってた。ところが、どこにも引っ掛からないで、スッと出ていっちゃう。前のあたしに比べると、キーンとした高音になってしまった……歌に幅がなくなったんだ。歌というより音だね。音に奥行がなくなっちゃった…」  「厚味がなくなってしまった」  「そう、そしてレコードに力みたいなものがなくなってしまったわけ」  「つらいのはね、あたしの声が、聞く人の心のどこかに引っ掛からなくなってしまったことなの。声があたしの喉に引っ掛からなくなったら、人の心にも引っ掛からなくなってしまった……歌っていうのは、聞いている人に、あれっ、と思わせなくちゃいけないんだ。…あれっ、と立ち止まらせる力が、あたしの声になくなっちゃったんだ」  「確かに、ある程度は歌いこなせるんだ。人と比較するんなら、そんなに負けないと思うこともある。でも、残念なことに、あたしは前の藤圭子をよく知っているんだ。あの人と比較したら、もう絶望しかなかったんだよ」  「…それは理屈じゃないの。あたし自身がよくないって思えるんだから、それは駄目なんだよ。だいたい、あたしが歌ってて、すこしも気持がよくないんだ」  「微妙なものなんだね、声っていうのも」  「そうなの。それなのに、そこにメスを入れっちゃったんだ。…本当はね、あたしの声が変わっちゃった、駄目になっちゃったということを、いちばん早く知ったのは、お母さんだったんだよ」  「…舞台の袖で聞いていたお母さんが、傍にいる人に訊ねたんだって、純ちゃんの歌をとても上手に歌っている人がいるけど、あれは誰かしらって、って。その人が驚いて、何を言っているんですお母さん、あれは純ちゃんが歌っているんじゃありませんか……お母さんは耳を澄ましてもういちど聞いたらしい。でも、そう言えば純ちゃんの歌い方に似ているけど……としか言えなかったんだって。お母さんは、その話を、最近になるまで教えてくれなかったんだけど、ね」  「一生懸命歌ってきたから、あたしのいいものは、出し尽くしたと思うんだ。藤圭子は自分を出しつくしたんだよ。それでも歌うことはできるけど、燃えカスの、余韻で生きていくことになっちゃう。そんなのはいやだよ」 沢木の本<敗れざる者たち> を例にとって「一度頂上に登ってしまった人は、もうそこから降りようがないんだよ。二つしかその頂上から降りる方法はない。ひとつは、転げ落ちる。ひとつは、ほかの頂上に跳び移る。この二つしか、あたしはないと思うんだ。」  「あなたは、勇敢にも、どこかに跳び移ろうとしているわけだ」  「うん」  「どこへ跳ぶの?」  「女にとって、いちばん跳び移りやすい頂っていうのは、結婚なんだよね。それが最も成功率の高い跳び移りみたい。でも、あたしにはそれができそうもないし……」  「じゃあ、どこに跳び移るの、結婚じゃないとしたら」  「笑わないでくれる?」  「もちろん」  「勉強しようと思うんだ、あたし」 という具合に話は進み、次の「六杯目の火酒」では、見る夢の話から、子供の頃やデビュー前の話、芸人の気持ちなどが語られた後、「デビューした頃のあなたは、無心で、しかもオドオドしていたんだろうな。それは……本当は……そんなに一致するはずのもんじゃないけど、それを共存させるものが、あなたにはあったわけだ」という沢木の感想が引き出され、さらに「あなたはもしかしたら、お母さん以外に、慣れた人間がいないんじゃないんだろうか。あなたという小動物が慣れた人間は、ひとりもいないんじゃないのかなあ。」と言われ、また、干支もうさぎと知られる。

 それから、「あたしは、お父さんが、ほんとに怖かった」  「カッとすると、何をするかわからない人なんだ。子供たちはみんな怯えてた。お母さんも、みんな怯えていた」ことも語られる。

 そして両親の離婚、その後の父親とのつき合い方なども語られ、最後に母親が圭子の歌を聞くのが大好きなのだが、手術後の歌には前ほどゾクッとしないようだ、などが語られ、また「会場に行くと、お手伝いさんと一緒に、チョコンと座席に座っていたりして。でも、あれはどうしてだろう、お母さんの姿が見えると、ジーンとして、歌いながら胸が熱くなってしまうんだよ」などの言葉が出て、次の「七杯目の火酒」に移って行く。

 そこでは、圭子の周りの事務所の営業や経営、金銭感覚、私生活の様子、男関係などが話されて、結婚を考えたこともあったなど、が明かされる。その中で印象に残る会話は、「……そうなんだ。あたし、ヒステリーを起こしたんだよね」  「あなたみたいな人でも、人並みにヒステリーを起こすんですか?」  「起こすんですよ、これが。すごいヒステリーを起こしちゃった」  「お母さん……びっくりしたんだって。血の気が引くような思いをしたんだって。そのヒステリーの起こし方がとてもお父さんに似ていたらしいの。そっくりだったんだって。ああ、この子にもやっぱり、あのお父さんの血が流れているんだろうか……」という部分だった。

 

「最後の火酒」 :もう一気にブログ紹介も終わりにしよう。 引退の、「記者会見じゃ、みんなからギャーギャーやられた?」  「そうでもなかったよ」  「テレビでみると、せきこむようにしゃべっていたようだったけど、上っていたのかな」  「どうだろう。あとでVTRを見てみると、どういうわけかニコニコ笑ってるんだよね」  「そういえば、テレビのキャスターが、こういう場面には涙がつきものなんですが、とか不満そうに言ってたなあ」  「新栄の社長がね、自分は反対していたが、こうして引退するということになってみると、むしろ嬉しいと言ってくれたの」  「その場で?でも、それはどういう意味?」  「社長はね、やっぱり引退は思いとどまらせようとしていたわけなの。だから、前から一度ゆっくり食事をしながら話し合おうと言ってたんだけど、いろいろの都合で会えないうちに、こんなふうになってしまったわけ。引退発表をしてしまえばおしまいだから、社長も迷ったと思うんだけど、こう考えたんだって。別にうちをやめてよそのプロダクションに行くというわけでもないし、歌手というのはいつまでもダラダラ歌っていって、みじめになっていつやめたかわからないような消え方をするのが普通だ。でも、純ちゃんみたいにまだまだ歌えるのに惜しまれながらやめていくなんて、こんな幸せなことはない。みんなそうしたいけど、できないままにぼろぼろになっていく。それなら拍手をして送り出そう、ってそう言ってくれたわけ。おめでとう、って」  「それはよかったね。少なくとも事務所の人たちは理解してくれたわけだ」  「まあ、ね」 

 記者会見後数日経って、タクシーに乗って、「運転手さんは個人タクシーのおじいさんだったんだ。降りる間際に、急に言い出したんだよね。あの、歌い手の藤圭子っていう子も引退するらしいけど、無理ないよな、やめさせてあげたいよな、って」  「あなたが藤圭子だっていうことを知らずに?」  「うん、ぜんぜん気がついていないの。あの子がやめたいっていうのは無理ないよな、ってあたしに話しかけるんだから」  「へえ。でも、それは嬉しかったね」  「うん、嬉しかった、とても」 

 以下、前川との関係 「前川さんはいいひとだよ、それに歌も抜群にうまいよ、あたしはそう思ってる。」  「日劇で歌を聞いて、そのあとで、前川さんと何か話したりしたわけ?」  「話したよ」  「どんなこと?」  「いろんなこと。あたしはもう歌をやめるつもりだとか……そのこと、まだ発表してない頃だったから」  「そんあことまでしゃべったの?」  「うん」  「そうしたら、彼は何と言った?」  「それはよかった、って」  「祝福してくれたわけなのね」  「前川さんはね、以前からやめろといっていたの。おまえは芸能界にはむかないからって」  「そうなのか」  「だから早くやめろといったろ、って言われちゃった。でも、あのときはそうはいかなかったんだよ」  「あのとき?」  「結婚したとき」  「なるほど、そうか、前川さんは結婚するとき、引退して家庭に入れと言ったのか」  「でも、あのときは家族のこともあったし。ようやく引退しても何とかやっていけそうになったからなんだと言ったら……困ったことがあったら、何でもぼくに相談しに来いよと言ってくれて……嬉しかったな」  「それは、よかったね」  「そのとき、前川さんにね、ぼくと別れてからあまりいいことなかったろ、と言われたから、うんと答えたんだ」  「そんなこと、正直に答えたの」  「だって、本当のことだから仕方ないよ」  「馬鹿正直ですねえ」  「ぼくと別れてからロクな男にぶつからなかったろ、と言うから、それもうんと答えた」  「前川さんの方が、ずっといい男だった?」  「うん」  「目がないあたしが悪いだけ」  「そういうのを、男運がないと言うらしいよ、世間では」  「うん、そうなんだ。いままでは、どうしても、芸能界の人しか知り合う機会がなかったけど……」  「これからは、違いそう?」  「うん、そう思っているんだ。大いに希望を持っております、なんてね」  「聞けば聞くほどやめる必要はない、と思うんだよね。もっと聞きたい、というかな。繰り返しの愚痴になるけど、続ければいいのに」  「いい加減な決心じゃないつもりだよ、あたし」  「それはわかってる。だからこそ、さ」  「いや、ここまで突きつめて、自分が決心したことだもん、戻れといっても戻れないよ、無理だよ」  「でも、歌を歌うには確かに口惜しいことだけど、切ってよかった、だから歌をやめてよかったという人生がこれから送れるかもしれないし……

 

 ・・・ 終りたい、と思ったが終れなかった。 結びをどこかで書かないといけないだろうなあ


沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社 2013年刊)-1.

 このところ毎朝読む新聞小説が沢木のもので、そのタッチの明るさ・爽やかさが気に入ったので、何かもう一冊、と図書館で探したら標題の本が見つかった。はじめは、キャパを描いた本があった筈と探したが、そちらは貸し出されていたため、このタイトルだけで借りてきた。

 家で開いてみたら何と藤圭子へのインタビュー記録だった。実は彼女が引退した年1979年に行ったインタビューを一まとめしたものだが、そのまま公刊するのに作者が疑問を持ち保留していた。その後彼女の自死を知り、また発表された宇多田氏やヒカルのコメントなどにはあき足らず、藤圭子の稀有な心の素直さや清潔さなどを伝えたい、と思い立ち出版されたものだった。沢木と圭子の感性がみごとに触れ合い、各ページに彼女の真の姿・人生軌跡などが印象的に浮かび上がってくるインタビュー記である。

 本の末尾、沢木は[この作品で取り上げた主人公について、本文ではいっさいその外貌が描かれていない。…しかし、その制約がなかったとしても、私にその美しさを描き出すのことができたかどうかわからない。しかも、美しかったのは「容姿」だけではなかった。「心」のこのようにまっすぐな人を私は知らない。まさに火の酒のように、透明な烈しさが清潔に匂っていた。だが、この作品では、読み手にその清潔さや純粋さが充分に伝わり切らなかったのではないかという気がする。私はあまりにも「方法」を追うのに急だった。だからこそ、せめてタイトルだけは、『インタビュー』という無味乾燥なものではなく、『流星ひとつ』というタイトルをつけたかったのだ。それが、旅立つこの作品の主人公に贈ることのできる、唯一のものだったからだ。]と記した。

 

 インタビューは79年の秋にホテルニューオータニの40階にあるバー・バルゴーで実施された。本の目次によれば、会話は 「一杯目の火酒」、「二杯目の火酒」、「三杯目の火酒」、「四杯目の火酒」、「五杯目の火酒」、「六杯目の火酒」、七杯目の火酒」、「最後の火酒」と進んでいき、作者の問いや感想にほだされ、答えつつ彼女の人生・生活・男女関係・心模様などが明かされて行く。二人が注文したのは、レモン付きウォッカ・トニックである。

 「一杯目」ではまず、週刊誌等の通り一遍の質問しか出てこないインタヴュウ―の馬鹿らしさに嫌悪が示されるが、作者は彼女の話を熱心に聞こうと「すぐれたインタビュアーは相手さえ知らなかったことをしゃべってもらう」と言うが、「知らないことなんかしゃべれないよ」と返される。…「とにかくあなたが、芸能界を引退するのは確か十年間、いろいろと生きてみて、どうでした?」には、「やっぱり面白かったと思うな。見ようと思っても誰でも見られる世界じゃないしね。面白かったよ」と言う。そして引退するのは、「歌手とは違う人生を生きてみたいっていう…でも、それじゃあ、どうしても信じてもらえない…誰も人のことなんか、本当にはわからないんだ」と言う。続いてさまざまと、メディアや芸能界の人々の固定した、地の悪い見方が語られる。

…あなたは、まことに凄まじい時間をくぐり抜けてきた人なんですね」 「別に大したことじゃないよ、読まなければ腹も立たなくなるよ、そのうち…前川さんと離婚した時も、絶対に読まないって決めていたの。…」「(ある筈のないようなことが―)いつか本当のように言われたりするんだ」―嘘をつくのがいやで、いつも本当を語ってきたので、「お母さんが目が見えないということも、両親が旅芸人の浪曲師だったってことも、みんな本当のことだから恥ずかしがることはないと思ったし、貧乏だったということも、あたしが流しをしてたってことも、みんな本当のことなんだから、恥ずかしくないと思ってた。でも隠しておくべきだったんだろうな……」 …「たとえばさ、あたしの歌を、怨みの歌だとか、怨歌だとか、いろいろ言ってたけど、あたしにはまるで関係なかったよ。あたしはただ歌っていただけ」…「何を考えながら歌っていたのかな」 「何も」 「何も?」 「ただ歌ってた」 「何も考えずに、何も思わずに?」 「うん」 「…何も考えてなんかいないのに。親子二代なんだよ、この顔は」 「親子二代とは面白い。……いつも楽屋なんかではどうしているの?」 「黙ってる」 「どうして?」 「つまらないから」 「…本を読んでるか、寝てるか、付き人の艶ちゃんと少し話すか……」 引退→「別に、何でもないよ。……でも、とにかく、いくらお金がなくても、平気、あたしは」

 このあと昔沢木が偶然、パリのオルリー空港ではじめて圭子らと出会った辺の話が挟まった後、「二杯目の火酒」へと移り彼女の生い立ちがいろいろ語られる。破天荒な父親のことや母さん子だったことなどが話題に上がり、次の「三杯目の火酒」へと進む。

 そこでは八洲秀章の勧めで、旭川の中学を卒業しそのまま東京に向かい、母親と共に西日暮里にアパートを借り暮しは

じめてからデビューまでの日々、彼女を売り出した沢の井氏との出会い、金はまるでなかったが結構楽しく暮らしていたことなどが語られる。その先にRCAからのレコードデビューが来る。

「女のブルース」…「冴えておりましたね、石坂まさを氏、は」 「そうなんです。冴えていたんです。‐何処で生きても 風が吹く  何処で生きても 雨が降る  何処で生きても ひとり花  何処で生きても いつか散る‐ほんとに……何処で生きたって、いつか散るんだよね……」 「ぼくは、やっぱり〈女のブルース〉で好きになったんだろうな藤圭子が。しかし、どうして、すぐ追いかけるように〈圭子の夢は夜ひらく〉を出してしまったんだろう」 「〈女のブルース〉が最高に売れているとき、〈圭子の夢は夜ひらく〉を出してしまったから、歌えなくなっちゃったんだよね。〈女のブルース〉が。…もっと歌いたかったけど、短かったね。普通の人にとっては…どちらかといえば、印象が薄いらしいんだよ。それが、とっても残念なんだ」 「〈夢は夜ひらく〉の二番の歌詞、あるでしょう? ‐十五、十六、十七と  私の人生暗かった  過去はどんなに暗くとも  夢は夜ひらく‐ この歌詞に抵抗感はなかった?」  「なかった」  「これ、自分のことを歌っているとは思わなかった?」  「思わんかった。ただの歌の、ただの歌詞だと思ってた」  「でも、聞く人は、その歌詞をあなたそのものに投影して、感動してたわけだよ」  「人がどう思おうと関係ないよ」  「食べて、生きてこられたんだもん、それが暗いはずないよ」  「あなたは……実に意地っぱりですね。呆れるというより、感動するくらい」  「フフフッ。そんなに意地っぱりかなあ、あたし」  「それがあなたの身上なんだろうな。それがあったから、あなたは藤圭子になりえたんだろうから。…」  「昭和四十四年の九月に藤圭子は〈新宿の女〉でデビューして、四十五年の二月に〈女のブルース〉、四月に〈圭子の夢は夜ひらく〉、そして七月には〈命預けます〉まで出している。四十五年というのは、あなたにとって、本当にすごい年だったんですね。〈命預けます〉だって、悪くない歌だもんね」  「そうだね」  「これも、石坂まさを作か、……。藤圭子という素材を得て、持っているものが一気にバッと爆発したんだね、石坂まさを、こと沢の井さんも。わずかその一年のあいだに、ね」  「そう、一挙に花ひらいたんだろうね」  「それが過ぎて……枯れてしまったというわけか」  「そういうことなのかなあ」…「しかし、一九七〇年というと、ぼくが大学を卒業する年だったけど、ほんとに、この年はあなたの〈圭子の夢は夜ひらく〉の年だったなあ。 ‐前を見るよな 柄じゃない  うしろ向くよな柄じゃない  よそ見してたら 泣きを見た  夢は夜ひらく‐ これを聞くと、ぼくにも、よぎるものがある。何だか、はっきりはわからないけど、体の奥の方から泡立つようなおのがある」  「そう……」

 「四杯目の火酒」では、まず前川清との結婚・離婚、前川との友達性の強い関係、彼を尊敬ることなどが語られる。彼との結婚は沢の井に営業ネタで週刊誌に売られた結果で、前川のことは兄のように感じていたという。

 その後、「あたし、二つの歌を殺してしまったんだ。自分の歌を自分の手で。とても素晴らしい歌を、自分の手で死なせちゃったの。生まれてまもない……歌が歌手の子供だとすると、自分の子を殺してしまったわけ。駄目だよね。歌手としては、なっちゃないよね。ほんとに馬鹿だよね」と言う。ひとつは〈恋仁義〉、前川と婚約している時期、惚れていながら身を引く心、という歌詞が白々しすぎると感じ歌えなかったという。知られている曲でもないのに、今でも聞く人が喜んでくれる歌だった。もう一曲は〈京都から博多まで〉に続く、阿久悠作詞の第二作〈別れの歌〉、これは歌を出して一か月後に前川と離婚してしまい、「いかにもぴったりしすぎるじゃない。〈別れの歌〉だなんて。そんなこと思いもしなかったけど、宣伝用の離婚だなんて言われて、口惜しくて口惜しくて、それならもう歌いません、という調子で歌うのをやめてしまったの」  「馬鹿ですねえ」  「ほんと馬鹿なの。でも、やっぱり私には歌えなかったよ。だって、四番なんて、こんな歌詞なんだよ。 終着駅の 改札抜けて  それから後は 他人になると云う 二年ありがとう しあわせでした…… 後見ないで 生きて行くでしょう こんな歌詞を、離婚直後に、沢木さんだったら歌える?」  「どうだろう」  「歌手だったら、プロの歌手だったら、絶対に歌うべきなんだろうけど。あたしは駄目だった。駄目だったんだ……」  「結婚と離婚という、女性にとっての曲り角に、そういう歌がやって来るという巡り合わせになってしまったところに、あなたの歌手としての運命があったんだろうな。なにも、そんなときに、よりによって、そんな歌が、しかもそんな歌詞で、できてこなくてもいいわけだからね。それに、あなたがそんなあなたじゃなければ、それを歌い続つづけて、大ヒットさせたかもしれないしね」  「その二曲を殺さないで歌ったからといって、ヒットしたかどうかはわからないけど、残念だなあ、もっと歌いたかったなあ、歌っておけばよかったな、という思いはあるんだよね」

 離婚の後にはぶらぶら遊んでいて、その間に両親の離婚があり、ここでも週刊誌にいろいろと書かれたが、よく耐えて、頑張ってきた。「あたしはね、ただお母さんとお父さんを離婚させてあげたかっただけなの」  「お母さんの望みだったから」 -続く-



ドゥルーズ・ガタリから「リゾーム:Rhizome」他 (続)

 以下「ドゥルーズ 流動の哲学」(宇野邦一)講談社、B「現代思想」のドゥルーズ=ガタリ総特集 青土社。

 

「リゾームとはなにか」:『リゾーム』という一冊の小さな書物が1976年に刊行され、日本語でも豊崎光一訳によって広く読まれた。日本へのドゥルーズ=ガタリへの関心は、これによって急激に高まった。このテクストは、わずかな変更を経て『千のプラトー』の序文となる。「リゾーム」(根茎)とは、タケやハスやフキのように横にはい、根のように見える茎、地下茎のことである。「リゾーム」は「樹木」と対立する、と彼らは言う。(以下、前ブログの「リゾーム」の解説につながる) (A)

 

『アンチ・エディプス』から『千のプラトー』へ:――それにしても『千のプラトー』は文学なのでしょうか。この本には、きびすを接したいくつもの領域の多様性が見られます。民族学、生態学、政治、音楽、などがそれです。この本はどこのジャンルに入れることができるのでしょうか。

ジル・ドゥルーズ「哲学、ですね。この言葉の伝統的な意味で、哲学と言うほかなさそうです。絵画とは何か、と問うてみるときに、答えははわりと簡潔なものです。画家というのは、線と色彩の秩序のなかで創造行為をおこなう人のことです。さて、哲学者の場合も同じです。哲学者は、さまざまな概念の秩序のなかで創造行為をおこなう人であり、新たな概念を作りだす人のことです。もちろんそこには哲学の外に位置する思考もあるわけですが、諸概念の特殊形態のもとでではありません。  これらの概念は、ありふれた生活、日常的な思考の流れに作用をおよぼす特異なるものなのです。『千の高原』では、さまざまな概念にたいする幾つもの試みがなされています。リゾーム、平滑空間、現前性、動物的生成変化、抽象機械、ダイアグラム、などがそうです。フェリックス・ガタリがこれら多くの概念を考え出し、ぼくも哲学の立場から見解を同じくしたわけです。……組みこみという観念は行動という観念とおきかえうるものであり、この観念に大しては、自然文学という弁別がもはや当てはまりはしない、と。行動というのは、ある意味では、なおも輪郭であるにとどまります。これにたいして組みこみは、音、色、身振り、姿勢といったまるで異質な成分、それに自然や人為などをひとつにすることなのです。つまり、さまざまな行動をおこなっている「存立」の問題です。存立とは、じつに特殊な関係性のことで、論理的とか数学的というよりも、もっとずっと物理的な関係です。どのようにして事物は存立をつかみとるのだろうか。まったく異なった事物のあいだには、強度な連続性があるはずです。ベイトソンから「高原(プラトー)」という語を借りたにしても、それはまさしく強度な連続性のこの圏域を指し示すためなのです。…… この本は、ぼくたちに多くの労働を要求したものですが、読者にも多くのことを要求しています。 カトリ-ヌ・クレマンとの対話 (B)

 

『アンチ・エディプス』への序文(ミシェル・フーコー):私は、『アンチ・エディプス』を倫理の書と呼びたい。長いフランスの歴史のなかではじめて書かれた倫理書、と。人はいかにしてファシストにならずにすませるか、それも(とりわけ)自分自身を革命の闘士と信じている場合に。我々は自分の言動から、自分の心情や快楽から、いかにしてファシズムをとりのぞくか?……もし私が、この偉大な書を、日常生活のマニュアルもしくはガイドにしようと望むなら、私は、つぎのようなかたちでその原則を要約することになろう。

 統合と全体化をめざすあらゆるパラノイアから、政治活動を解放せよ。

 分裂増殖と対置(ジャスタポジション)と不連続によって、行動と思考と欲望を発展させよ。このとき、下位分割化とピラミッド的位階構造化にたよってはならない。

 否定的なるものの古きカテゴリー(法・限界・去勢・欠如・空白)への忠誠を撤回せよ。西洋の思想がかくも長きにわたって、力の形態としてまた現実への接近法として、聖化して考えてきたのが、この否定的なるものだ。肯定的で多様なるものを、画一性でなくて差異を、統一でなくて流れを、体系ではなくて動的な組みこみを、優先させよ。能産的なるものはすべて、定住的ではなく遊牧的(ノーマディック)であると信じよ。

 闘争的であるためには陰うつでなければならぬと考えるな。……そして政治的介入をおこなう対象たる諸形式と領域を多様体(マルティプライア)にするような分析を使用せよ。

 哲学でこれまで定義されてきた「個人」の権利なるものの回復を、政治運動に要求するな。個人は権力の所産にすぎない。必要なのは、多様化とずらしによって、多岐にわたる接合を、「脱個人化」することだ。集団は、階層化された個人個人を結びつける有機的靱帯であってはならず、脱個人化の恒常的産出体であらねばならない。

 権力に魅惑されるな。

 ……彼ら自身の言説が帯びてしかるべき力‐パワーの作用までも、中立化せんとつとめたとさえ言えるだろう。本書のいたるところに散りばめられた、遊びと計略がそれを物語る。…… B


ドゥルーズ・ガタリから「リゾーム:Rhizome」他

 昨年10月頃から暇を見つけ、庭の手入れをしている。今年に入っては築47年の家の諸々の不具合の改修も始めた。玄関ホールからテラスに出る開口をアルミ戸に替える際にはホールを狭くしていた椅子を二つテラス用に外に出すことにした。イームズのシェルチェアだが、裂けかけたビニールの上張りを剥そうとしたらクッション材の発砲ウレタンをFRPシェルに付けていた糊を剥ぐのに結構手間取った。カワスキを使って徐々にはがし終えたところである。

 それよりも、庭作りでのアズマネザサの地下茎との格闘はさらに大変だった。我慢強く、生えた笹を掘り起しペンチも使って引き抜いて行き、笹の繁茂した庭に、人の領域の部分を拡げてきた。

背部分以外糊の取れたイームズチェアー.jpg 

庭の花畑.jpg 

 

 そうしている際には、ふと地下茎=リゾーム、Rhizome という言葉が浮かんだりしていたため アマゾンで「ドゥルーズ 流動の哲学」(宇野邦一)を求め、図書館には「現代思想」のドゥルーズ=ガタリ総特集を予約しておいた。両書が揃ってからしばらく経ったので、読んだ中から記録しておきたい処を書き写しておくことにする

 

「リゾーム」:「樹木」は我々が秩序と呼ぶもののあらゆる特徴をそなえる。幹あるいは中心があり、それを支える根、幹から広がる枝は対称的に広がり、中心(幹)からの距離によって定められる序列がある。

 これに対して、「リゾーム」には、全体を統合する中心も階層もなく、二項対立や対称性の規則もなく、ただ限りなく連結し、飛躍し、逸脱し、横断する要素の連鎖があるだけである。……人間の脳には一つの「樹木」的構造がしっかり植え付けられているようだが、脳はまるで「雑草」(リゾーム)のような配置を含んでいるからこそ、新しい事態に対応し、新しい思考を生み出す。言語もまた、チョムスキーの「生成文法」の図式が端的に示すように、樹木としてとらえることもできれば、さまざまな言語(国語、方言、未知の言葉、動植物の言葉……)の交点に立つ詩人にとってそうであるように、リゾーム状態を呈することがありうる。(A)

 

「プラトー」:『精神の生態学』のベイトソンは、バリ島の文化を研究しながら、そこでは母子間の性的な戯れや男同士の争いに、「奇妙な強度の静止」が見られることを指摘している。「一種の連続した強度のプラトーがオルガスムにとって代わる」。

 一点に集中する突出した快楽や暴力ではなく、はりつめた状態(プラトー、つまり高原)だけがあって、それは頂点をもたず、何らかの目標や終局も持たないようである。……『千のプラトー』は、様々なプラトーについて語っているが、同時にそれ自身プラトーとして書かれている。或いはプラトーによって構成される本、様々なプラトーを実現する本であると言える。「……諸々のプラトーからなる本の場合はどのようなことが起こるであろうか?一つのリゾームを作り拡張しようとして、表層的地下茎によって他の多様体と連結しうる多様体のすべてを我々はプラトーと呼ぶ。我々はこの本をプラトーのように書いている。それをさまざまなプラトーによって構成した。」(A)

 

差異と反復』とその分身『意味の論理学』:『差異と反復』(博士論文)を提出した1968年に、ドゥルーズはまだリヨン大学で教えていた。この年にはフランスの政治が大きく揺れ、後にも世界中で様々な反響を引き起こすことになる。……1969年には『差異と反復』の「分身」と言っていい書物『意味の論理学』を刊行した。……ミシェル・フーコーは、1970年に『差異と反復』を『意味の論理学』とともに書評して、「いつの日か、世紀はドゥルーズ的なものとなるだろう」と賛辞を寄せた。

・主体と客体から解放された理論彼は西洋哲学の伝統的な設問を綿密に腑分けし、そこに一貫する幾つかの前提や傾向(同一性、主体、表象、理性、二元論、超越性……)を根底から批判し、現代の思想的要請に答えようとした。フーコーは「我々はおそらく、初めて、全面的に主体と客体から解放された思考の理論を獲得している」とこの本がなぜ画期的なのかを正確に定義している。……『差異と反復』、『意味の論理学』は、二十世紀の思考を襲ったある根本的な転換を見つめ、その転換を可視的にし、さらに押し進めようとする試みであった。ドゥルーズは、そのように構築した「思考の理論」の延長戦上に、やがて新しい社会性と政治学に向けられる思想を創りだす。

「哲学の書物を、長い間続いてきたような書き方で書くことは、やがてもうほとんど不可能になるだろう。我々にとって哲学史は、絵画においてコラージュが果たしたのに似た役割を演じなければならない。」

……哲学に本質的な意味で演劇的なものを注入し、思考の演劇と言っていいような哲学を実践したニーチェの傾向を、ドゥルーズは単にレトリックでも、メタファーでもなく、思考の本性にかかわるものとして受け継ごうとする。……(A)

 

  さて、 続きはまた、書くことにしよう。 

 



山田風太郎「警視庁草紙」から

 引き続山田風太郎ものなのだが、やはり彼本来の(というか?)忍法帖や明治開化ものも、いちおう舐めておかなければと、甲賀忍法帖と警視庁草紙を読み始めた。まったくパスタイムの愉しみのためである。

 やはり読んでみれば面白くて、東京往来の横須賀線内の時間もあっという間に過ぎてしまう。

 彼の名を高めたこれらのエンタテインメントについては、「面白い」と紹介すればそれで十分と思われるので、ここではそれらの読み物の中にも、前ブログで紹介した著者の感慨が出てくる所があるので、ここに一寸紹介してみたい。

 話は明治になって旧幕の碌を食んでいた侍たちや町人たちが、薩長主導の新しい社会の流れの中で苦しい暮しを余儀なくされていて、そんな市井の人々の窮地を元八丁堀同心だった千羽兵四郎や岡っ引きの かん八が助け救う話が下敷きになっていて作者がデビューした探偵もののを加味し面白いものになっている。

 そうした中で、兵四郎たちは自分でどうにもならないと思うと、元南町奉行だった駒井相模守の応援を求めに行く。

 何とそのお爺さんは、旧南町奉行所の一画に三帖三間の小屋を隠宅にしていて、兵四郎たちには思いも付けぬ策を授けてくれる。その背景には、さすが南町奉行だけのことはある情報の蓄えがあり、それはいまの政府の内奥にまでも及んでいる。

 

 さてと、今回紹介するのは「開化写真鬼図」という、明治の写真師・下岡蓮杖が出てくる話の一部で、軍人志望の東条青年に向けて、彼が語るところ。

 御隠居は嘆息した。「あの維新な、あれでどんな変革が日本に起ったか。徳川幕府が明治政府に変ったのをはじめとして日本はいろいろ様変りしたが、その中で、それらの何よりも一番大きな変化は、日本人が今まで知らなかった或ることを知ったということじゃとわしは思う。……あのとき、日本人はさんざん異人におどされた。ペルリ、オールコック、パークス、親切なハリスまでが日本をどやしつけた。現実にすぐ外では阿片戦争などが起っていたし、日本自身も薩摩長州では外国艦隊の砲撃を受け、千島や対馬は侵された。それを見、それを味わって日本人が感じたのは、幕府方、討幕方を問わずすべての者が心魂に徹して、おとなしく引っ込んでいちゃ駄目だ、じっとして座っておれば食われるばかりだ、ということじゃった。……

 この場合に、御隠居は自分の維新感を開陳しはじめた、

「いいも悪いもない。国民的な恐怖から出た左様、意識革命というやつじゃ。それと同時に日本人は、欲しいものはほかの国を侵しても目的を達する、ということを異人から学んだ。それまで日本は、狭い島国の中で、ただあるもので飯を食う、ということを暮しのもととしておったのじゃ。島国の中では、物に限りがある。それを承知しているゆえに、欲はその限られたもののうち、と心得て、あらゆる世の中の仕組み、ものの考え方はそこから出ておった。しかるにあのとき、日本人は、もし欲が物を上廻り、それがなければ遠慮なくよそにとりにゆけばよい、というやりかたを異人から学んだ。日本人にとって、水滸伝の石の棺から飛び出した魔星のような思想じゃな。……
 二人はぽかんと聞いている。 

「かくて日本人そのものが、百八どころか日本人の数だけの魔星となった。おまえさんもその一つ、いや、その将星になりたいというか」 御隠居は東条青年をしげしげと見まもった。 


「日本人の変りようは、もう手がつけられぬ。……なるようにしかならんのじゃろ。しかし、何をやろうと、ゆきつく果ては、しょせんは、無、じゃぞ。ふおっ、ふおっ、それを承知の上で軍人になるか。
「はい!」 東条は、大声で答えた。
 

 ―何と、この東条こそ、その後陸軍に入り出世して日清戦争などで活躍し、その孫に東条英機が出生する、という筋立てとなっている―

 

 とまあ上のように、前ブログで山田氏が指摘した考え方が、この小説の中で登場人物たちにも理解できるように、より具体的に、詳しく説かれていたのである。


山田風太郎エッセイ集成「昭和前期の青春」(筑摩書房)から

 正月休み用に山田風太郎の本を何冊か借りていた。エッセイ集や雑誌「太陽」特集号、人間臨終図鑑などだったが、その中で標記の本が前ブログ冒頭で述べた第二次大戦時の世相、歴史などを確かめ一定の認識を得ようとする際には、最も参考になるが集約されているように思えた。合理的かつ自由しかも確かに考える著者の意見・論などを、ここでサンプル的に紹介したい。

 

『太平洋戦争私観―「戦中派」の本音とたてまえ』

 満州事変から日中戦争の頃に少年期を過ごし、太平洋戦争最中に青年期を送った彼には、敗戦は人生の三大ショックの一つであって、同世代の「戦中派」たちにも同様にぬぐえない傷痕を遺しただろう、と言う。

 その戦中派の太平洋戦争観の一例として、保阪正康の以下のような思い出を紹介する。小学生の頃よく太平洋戦争の映画を見せられ、その終わりに20代の女教師が厳粛に「正義は常に勝つのです」と教えたという。これに対し山田は「大まじめな軽薄というものも世にはあるものだ」と感じ、また「それが、戦後の太平洋戦争史観の定説なのかもしれない」、そしてまた「戦中派の大部分は、こういう女教師の見解に違和感を持つだろう」と反応する。戦争が愚かで悲惨、「不正」の分子を含むものだったことは否定せず、また再び戦争をしたくないという決心にも異論はない、が、それにもかかわらず、そのような単純な断定を下せない、何かが深い心の底にたまっている。と言い、漠然たる思考とことわりつつ、太平洋戦争はいま定説となっているようなものではなかった、と戦中派は本音として思っているだろうと述べる。

 太平洋戦争は、当時の愚かで狂信的な軍閥がひき起したものではなく、明治以来の日本がめざし、走り続けて来たコースの果てで、この戦争を否定することは明治以来の日本の歴史を否定することになると論じている。

 その起点は黒船で、黒船に目を開かされた日本人がはじめて見た欧米列強の生き方から受けた衝撃―自国の国益・安全性につながることなら侵略も辞さず、という傍若無人な弱肉強食ぶりに対する恐怖だった、アジアはそのいけにえとなった。危うくその難を逃れた日本は今度は列強に学ぶ決意をした。太平洋戦争はその猿真似の化けの皮がはがされた悲喜劇だった、と説く。

 日本のやったことは悪か?それなら白人は何百年何をして来たか?欧米に日本を裁く権利があるのか(→東京裁判における東条の論理と同じになるが‐)

 その頃はよかったのだ、今は悪いことになったのだ、というのが向うの言い分である。ここにおいて我々は例のクジラ騒ぎを思わざるを得ない。ペルリが開国を強要したのもアメリカの捕鯨基地を日本に求めた結果だった。クジラを獲るのに懸命だった白人がその後とらなくなると、獲る国をまるで人類の敵のように騒ぎ立てる。日本人は憮然とせざるを得ない。クジラ騒動は太平洋戦争の縮図であって、太平洋戦争はクジラ騒動の拡大図である。

 ともあれ、太平洋戦争は日本人の総ザンゲで決着したかに見えるが、不安定な日本という位置は全然変わっていない。今の日本は砂上の楼閣で酒盛りをしているようなものだ。

 

『戦中派不戦日記から三十五年』

 山田が書いた昭和二十年一年間の日記である。作家野呂邦暢は「……山田風太郎の『戦中派不戦日記』と、続く『滅失へ青春・戦中派虫けら日記』は日記文学の傑作である、あと荷風の『断腸亭日乗』があるのみ。東京医科大学の生徒であった作者が、こと細かに記した日常の記録で、どのページを開いても公の歴史には記述されない風俗の断片が生き生きと鮮やかに密着されている」と書き、歴史学者の松浦玲は「八・一五の風化に抗して」の中で「……山田の日記は、一九四五年のそのとき、その日々に書きつけられたナマの記録、時間をくぐったために生じるウソや美化、自己弁護などは一切ない。一九四五年の日本庶民の心情について、このような形で利用できるものは多くない」と書いた。

 

以下に未読者用に数節の再録が続くが、ここでは「三月十日、本郷あたりの景」と「六月十二日、横浜から東京へかけての景」と、最終部分を紹介する)

「茫然とした。――何という凄さであろう!まさしく、満目荒涼である。焼けた石、舗道、柱、材木、扉、その他あらゆる人間の生活の背景をなす「物」の姿が、ことごとく灰となり、煙となり、なおまだチロチロと燃えつづけ、横たわり、投げ出され、ひっくり返って、眼路の限りつづいている。色といえば大部分灰の色、ところどころ黒い煙、また赤い余炎となって、ついこのあいだまで丘とも知らなかった丘が、坂とも気づかなかった坂が、道灌以前の地形をありありと描いて、この広漠たる廃墟の凄惨さを浮き上らせている。電柱はなお赤い炎となり、樹々は黒い柱となり、崩れ落ちた黒い柱のあいだからガス管がポッポッと青い火を飛ばし、水道は水を吹きあげ、そして、形容し難い茫漠感をひろげている風景を、縦に、横に、斜めに、上に、下に、曲りくねり、うねり去り、ぶら下がり、乱れ伏している黒い電線の曲線。黄色い煙は、砂塵か、灰か、或いはほんものの煙か。地平線を霞めて、その中を幻影のようにのろのろと歩き、佇み、座り、茫然としている罹災民の影が見える」

……横浜より東京に至るすべて灰燼。渺茫の野赤くただれて、雨暗くけぶる。ところどころに幽霊のごとく立つ煙突より黒煙あがる。生産なおつづけつつありや。されど滅亡の曠野に雄たけぶ瀕死の巨獣のごとく悲壮また凄惨の景なり。この廃墟の復興いかにすべき。日本じゅうの山を裸にするともなお足らざらんとさえ思う」

 ……それから、三十五年。 地上には、いまやGNP世界第三位の国の都市が、摩天楼と高速道路と、排気ガスを吐く無数の車と無数の肥満人をあふれさせて、蜃気楼のごとく浮かんでいる。

 ・・・思えば「不戦日記」は、いま読むと、私じゃない別の人間の日記ではないかと思われるほど愛国の情に満ちている。まず一月一日「運命の年明く。日本の存亡この一年にかかる。祈るらく、祖国のために生き、祖国のために死なんのみ」、三月九日――例の三月十日の大空襲の前日には、それを知らず『……君よ笑め、げにわれらこそ祖国を抱きしむるなり 血潮波うつ裸の双腕をもて いのちの極み抱きしむるなり今の日本』などいう勇ましい詩を作っている。そして、十二月三十一日には、「運命の年暮るる。日本は亡国として存在す。われもまたほとんど虚脱せる魂を抱きたるまま年を送らんとす。いまだすべてを信ぜず」という文章で終っている。


 大半の日本人が――特に青年は――同様の心情であったろう。・・・ふりかえってみるとあの戦争では、責任ある地位の人々の中からは、ほんとうの忠臣は現われなかった。陸軍は陸軍あるを知って日本あるを知らず、海軍は海軍あるを知って日本あるを知らない趣きがあった。では一人もいなかったかというと、それはあった。少なくとも青年の何十%かはそうであった。戦争を悲しむ「わだつみの声」ばかりが当時の青年の声ではない。が、その翌年ごろから、大半の日本人が、狐憑きが落ちたように、こんな心情から離れてゆく。 ・・・松浦さんは、何といっても八・一五以前はマイナスで、八・一五以後はプラスだ、このことは動かしがたいと言う。・・・私のようなものが、ささやかにでも私の世界をひろげることが出来たのも、八・一五以後の世の中のおかげにちがいない。私など「死にどき」の世代でありながら、戦争にさえゆかなかった。それは医学生であったためではなく、招集は受けたのだが、病身のため帰されたのである。「不戦日記」の不戦は、誇り高い反戦の意味ではなく、劣等児のはじらいをこめた不戦なのである。

 思えば戦争中は地獄であった。・・・それにくらべれば、今はまさしく鼓腹撃壌の天国である。・・・日本人がかつて味わったことのない「日本の黄金時代」である。・・・

 昭和時代は前期と後期と画然と分かたれると思うが、昭和前期は日本史上最悪の時代であり、後期は最も「新しきよき時代」であった。・・・二度と前期の時代に帰ってはならない、帰してはならない、なんとかして後期の時代を半永久的に維持したい、そのためにはどうすればよいか、という点で――私にとっても大問題が生ずるのである。

(日記の九月一日)…「不合理な神がかり的信念に対して、僕などは幾たび懐疑し、周囲の滔々たる狂信者どもを、或いは馬鹿々々しく思い、或いは不思議に思ったか知れない。そして結局みなより比較的狂信の度は薄くして今日に至った。

 とはいえ、実はなお僕はみなのこの信念を恐れていた。狂信の濁流中で微かに真実を見ている者の心細さ、不安ではない。戦争などいう狂気じみた事態に於ては、「日本は神国なり。しかるがゆえに絶対不敗なり」とか「科学を制するは精神力なり」とかいう非論理的な信仰に憑かれている方が、結局勝利の原動力になるのではあるまいか、とも考えていたためである。自分の合理的な考え方が、動物的といっていい今の人間世界では或いはまちがっているのではないか、という恐ろしい疑いのためである。

 しかし非論理はついに非論理であり、不合理は最後まで不合理であった」・・・

(十月十九日)…「強がりはやめよう。日本はたしかに負けたのである。しかし。――われわれは未来永劫にわたって、現在のごとく米国の占領下に日本があるとは信じない。日本は盛り返す。そしてきっと軍隊を再建する。軍備なき文化国、などいう見出しのもとに、スエーデンなどが今称揚されているが、スエーデンが世界史上どれほどの存在意義を持っているのか。

 戦争のない世界、軍隊のない国家――それは理想的なものだ。そういう論にわれわれが憧憬するのは、ほんとうは尊いことなのであろう。しかしわれわれは、そういう理想を抱くにはあまりにも苛烈な世界の中に生きて来た。軍備なくして隆盛を極めた国家が史上のどこにあったか。われわれは現実論者だ」・・・

 ところで松浦さんの「八・一五の風化に抗して」は、「清水幾太郎批判」と傍第にあるように、山田の日記を紹介するのが目的ではなく、先の「日本よ国家たれ」という命題のもとに、日本の再軍備はおろか核武装すらタブーとするなかれ、という強烈無比の大論文に抗するための道具として不戦日記が挙げられたのである。 「この日記に二十三歳の山田が書きつけている言葉は、それから三十五年後の清水幾太郎の酔を醒ます効果をもつのではないか、というのが狙いである」と書かれていて、作者は驚く。それは原爆機に対して持ち出された水鉄砲のようなものだと感じたが、それに続きどういう思考を抱いたか、山田はふりかえって驚いた。・・・偶感を書きとどめたノートがある。・・・とにかくその中に、太平洋戦争に関する感想が非常に多い。

 敗戦後私の心は一応日本から離れたと言ったがそれどころじゃないな、と苦笑せざるを得ない。その大半はほんの数行ないし十数行の感想で内容は、敗戦の原因について、日本軍について、アメリカ、イギリスについて、天皇について、指導者について、戦争責任について、原爆について、東京裁判について、敗戦の意味について、等バラバラの断片で、まったく整頓していないので、おたがいに矛盾撞着した論も少くない。

 「行きつ戻りつ」は以後三十五年継続している。が、その中で最も執拗なのは一つの低音で、なんと、驚くなかれ、清水幾太郎の大論文と同性質のものだった。―ジョン・ガンサーがある婦人との対話の形式で書いた言葉、「――では、敗戦によって彼らが得た印象はどういうことですか」‐「――もしこんどやれば、もう二度と負けてはならない、ということです」、「――政治の面で何か学びとりましたか」‐「日本は惨敗し、打ちのめされました。これはどうしたことなのか、というわけで、それ以来というもの、日本人はこの点についてまるで子供のような好奇心にとり憑かれているのです」

 

 再軍備タブー論は重々わかっている。第二次大戦の教訓を忘れたか。近い将来日本を侵略しそうな国はないではないか。厖大な費用をかけてしかもこれで安心というメドはないではないか。凶器を持てばまたかつての軍部のような盲進をはじめるのではないか。何より石油をとめられたら万事お手あげではないか。……等々

 これに対して、だいたいにおいて、私は真っ向から弁駁の言葉を持たない。それどころか、まったくその通りだと思う。ただ低音部が空中にいう。

 それでは同じく第二次大戦に敗北したドイツはなぜ軍備を持っているのか。近い将来侵略の危険がありそうにない北欧の国々になぜ軍隊があるのか。その他、あらゆる国が右のような重荷や不安に堪えてみんな当然事のごとく軍備しているのはなぜなのか?

 是非善悪は別として、これが国家というものの常態で、いまの日本の方が異常なのだ。日本の再軍備タブー論は、あたかもいっぺん結婚に失敗した人間の並べたてる結婚有害説に似ている。悪妻の惨、悪夫の惨、はては結婚生活そのものの愚をあげれば、千万の反対論を構築できるだろう。しかし――人間は、結婚するのがノーマルなのである。

 タブー論者は、ただ日本の近代の歴史ばかりを見てものをいう。太平洋戦争のことばかり念頭においている。しかし太平洋戦争もやがては白村江の戦いのごとく朝鮮役のごとく、遠い遠い過去の小さな一コマとして流れ去るのだ。そして歴史はこれから先も何千年何万年とつづいてゆくのだ。しかし未来の方は、一寸先は闇というが、ましてや十年先の世界を見通せる人間は誰もいない。きょうの友邦が明日の敵とならない保証は全然ない。一方が戦争する決意をかためたら、その理由は何とでもつくのは、いままでの歴史の示すところではないか。

 それを防ぐのは軍備ではない。それは愚かしい流血の歴史を永遠にくり返すことになる。国家すべてが非武装であるべきが理想で、日本は人類にその見本を示すべきだ。という論に対して、いままで数千年それをくり返して来た人類が、近い将来その習性をみな脱するとは信じられない。少なくともここ一万年くらいは見込みがない、と低音部はいう。

 

弱肉強食は生物の原則で、同時に人間の原則だ。形は変わっても、この原則は永遠に変わらない、という強食派に対して、そんな原則はほしままにさせないのが人類の進歩だ、と弱肉派がいう。実は私は個人の素質としては弱肉派のほうだから、こちらに拍手を送りたい。できればその陣営の人となりたい。が――例の低音がいう。少なくとも日本を弱肉の地位に置かないように渾身の努力を払うのが、子孫に対するいまのわれわれの義務ではあるまいか。――そもそも、資源なく人間のみひしめく日本という国は、何らかのかたちで他を侵略しなければ生存不可能な因果な国ではないのか。

 ある国がせめて来たら、どうせ叶わないのだから、威厳をもってただちに降伏すればいい、という論があった。しかし降伏すれば、それで一件落着、万事大団円とは参らない。こんどはその国の敵国から容赦なく攻撃を受けることになるだろう。だいいち降伏という事態に威厳を持つことなんて出来やしない。勝利者がそんなことは許さない。言葉のアヤに過ぎない。

 世界に先がけて不戦の憲法を持つことすら、ニンに過ぎたことではなかったろうか?いまそれを支持する国民が大半ではないか、という論に対して、それはただ眼先の泰平に酔い痴れているだけの怠け者のねごとに過ぎない、と低い声がいう。

 こんな問答は果てのない水掛論に過ぎない、とは思うが、いやそう水掛論といって片づけてもいられない、とも考える。事が起ってからではもう遅いのである。・・・

 これは、とうてい戦中派とか戦後思想とかの次元で論じられる問題ではない。くり返すが、日本民族はこれから何千年も何万年も生存してゆかなければならないのである。その間、すべてのことにおいて、ほかの民族に、せめて出来るだけピッタリくっついてゆくことがそのための条件ではあるまいか。ひとり、あんまり変った方法で生きながらえてゆこうというのは、虫がよ過ぎ、ウヌボレ過ぎ、夢想が過ぎ、はては「非合理」なのではあるまいか。

 しかし、しかし、しかし――

 実際問題として、本格的再軍備というのは至難でしょう。……私はいまの日本人の男性でさえ再軍備賛成論者は五十%に満たないと見ている。女性のほとんどすべては反対論だろう。・・・

 何といっても軍備らしい軍備なくして過してきた「日本の黄金時代」の記憶は決定的である。・・・その戦中派も今や老いつつあるが、彼らは戦争に対してではなく、戦後自分たちの子供の教育に過ちを犯したのではなかろうか、と疑うことがある。・・・

 人間は不幸なときに地がねが出る。昭和前期には、ただ戦争そのものばかりではなく、社会相すべにわたって、日本人とは如何なる民族かということが、その長所短所にわたってすべて強烈無比のかたちで発揮されているからだ

国民全てを抵抗のしようもない勢いで巻き込んで、刻々大破滅へ向って進行する昭和前期は、国家や歴史というものの恐ろしさをまざまざと見せつける。――客観的に見れば書くに値する悲壮無惨の大ドラマとは思うけれど、私など幼年期、貧しい村の辻で遊んだ友達の大半が、青年期に死んでいったことを思うと、その思い出の中の幼い彼らが影絵のように浮かび悲哀の念が先立って、それをドラマとして描くなど、足もたじろぐ思いがする。

(以下『私と昭和』から) 潰滅をみずから呼んだにひとしい狂や愚や罪はいまだに鞭うたれているけれど、一方でこのごろ次のようなことも考える。

 いったい、アメリカ、イギリス、中国、ソ連、これに対して同時に戦いを挑んだなどという国家が、史上にあったろうか。これは狂や愚や罪の常識を超えていると――。・・・

 そしてその大愚行は「前期」でご破算になったはずだが、ひょっとしたら、ただ手法を変更しただけで日本はそれまでと同じコースをたどっているのではあるまいか?・・・・・・

 私はここ十年ばかり前から、同じ昭和後期でも、さらに日本が一変しつつあるのを感じているが、それはただ経済力の異常な急膨張ばかりではなく、日本人の大半が、戦争を知らない昭和後期人によって占められてきたからだと考える。

 いまやバトンは、昭和前期人から昭和後期人へ渡されようとしている。

 しかし、たとえ手法を変えようと、無意識であろうと、また世代が変わろうと、限度を越えた日本の疾走を世界が見のがす筈がない。それは昭和前期の軍国日本に対するのと同様である。

(―本書は200710月に発行された―)


イアン・マキューアン「贖罪」、今年の読書傾向

 さてようやくマキューアンの本を読み終えた。はじめは第二次世界大戦に向かう前夜のイギリス上流階層の生活・感情が細密に描写される文は取っつきにくく、難儀しながら読み進めていた

だが、セシーリアとロビーの心が通じ合う話の頃からはがぜん読むスピードが上ってきた。第二部のイギリス軍のダンケルク撤退の描写に入ると、その辺の事情を全く知らなかったこともあり、長時間読み続けてどんどんと頁が消化されていった。

  その撤退戦の際の非情・悲惨を読みながら、今年の読書の奇妙な一致点に気付いた。五月に村上葉さんに「ルーズベルトとホプキンズ」を頂いて、第二次大戦の際の米英側の事情を読み知ることができた。その後に同じ頃の日本側の事情を知りたくなり、山田風太郎の「同日同刻」を読み大戦開戦の日と終戦の頃のわが国の状況を知った。中でも、原爆の厄災に出会った広島・長崎の市民たちを描く部分は衝撃的だった。

 そうこうしているうちに、11月の半ばパリで同時多発テロが起きた。イスラム国へのフランス軍の空爆に対する報復という事だったが、テロの被害を伝える詳細な報道が全世界に発信され、先進国側は一致してテロ根絶の声明を発した。

 一方、「これはやはり戦争なのだ、シリアではパリで犠牲になった人々よりはるかに多くの市民たちが殺されている」という言説もメディアには載り、フェースブック上でもさまざまな感想・意見が飛び交った。

 戦争や宗教をめぐっての争い、人間社会の愚行に関しては前ブログでリューインの説「神は自分の欠点を含め人を造形してしまった」を紹介したが、かなり前には同様の問題に対する鶴見俊輔の意見を紹介した覚えがある。昨年は武田泰淳の「滅亡について」で彼の仏教者的な感慨を紹介した。・・・

 

 さて、また「贖罪」に戻らなければならない。この439ページもある力作をこのブログ文で紹介するとき、よく書け訳者あとがきから入るのがよいようなので以下に写してみる

 [マキューアンが語っているところによれば、彼の抱いていた野心のひとつは、現代において「愛」という問題を掘り下げることにあったようだ

 十九世紀の小説においては、愛というのはまったく自然に主題となりうるものでした。二十世紀の終わりにあって、それと同じ方法で愛というものを探求することが可能でしょうか? アイロニーと自己言及に覆いつくされたわれわれには、単にラブ・ストーリーを語ることはもはや不可能なのでしょうか?彼は述べている。

  『愛の続き』から『贖罪』へと移行する間に、マキューアンは愛についての考えをずいぶん純化させたように見える。語り口はいっそう精妙になり、愛の心理の襞に分け入ってとどまるところを知らない。

 だが、小説が愛を語ることについてのアイロニーは、核心部分で残り続けているようだ。200111日のニューヨークにおけるテロ事件に際して、『ガーディアン』紙15日付に掲載されたマキューアンのエッセイでは、ハイジャックされた飛行機や炎のなかの貿易センタービルから携帯電話で妻や夫や恋人たちに連絡した人がいたこと、彼らが例外なく「アイ・ラブ・ユー」というメッセージを遺したことに触れて、マキューアンはそこにあるのは愛だけ、それから後は忘却だけだ。殺人者たちの憎悪に対抗するために彼らが持ち合わせていたのは、愛だけだったと述べている。

 愛の後にあるのは忘却だけ。おそらくそこに、愛という行いを語る営為、ラブ・ストーリー・テリングに内在する最大のアイロニーがあるのだろう。

 『贖罪』の語り手ブライオニーは、かつて自分が犯した罪―ひとつの愛を無残に破壊したこと―を(あがな)うために、生涯かけて一篇の愛の物語を改稿し続ける。けれども、かつて愛し愛されたものたちはもはやこの世にいない。小説家ブライオニーも言うとおり、神ならぬ小説家にとって贖罪は不可能なのだ。愛を語ることは、語り手が(くう)にかける希望の橋に他ならない。]

 

 さてと、一人の小説家と彼女を取り巻く人たちの人生およびその時代を描いたこの大部の小説を、いつものように本文からの抜き書き紹介するには、終わり大団円の部分をしか無さそうである

 (七十七歳の誕生日、ブライオニーは午前中に帝国戦争博物館に寄るが、その前日には医者から自分の脳・精神が終業態勢に入っていることを知らされる)

電話番号、住所、自分の名前、自分がどんな人生をおくってきたか、それらも失われてしまう。二、三年のうちには、わたしは生き残っている旧友たちも見分けられなくなり、――二十四時間のケアが必要になる。」

 (戦争博物館では偶然自分の贖罪の話を公表するのに障害になっているロード・マーシャルと彼の妻のローラの姿を見かけるが、彼らはまだ元気そうった。・・・その後彼女は家に戻った後にタクシーに乗り、育った昔の屋敷今ではティルニーズ・ホテルとなっている)に向かう。運転者のアルバイト学生の青年、彼女の楽しい誕生日を祈って去って行く

「(泊まる部屋は)かつての自室ではなく、ヴィーナス叔母さんの部屋った。――湖、道、森、その向こうの丘が一望できる部屋だ。・・・一時間後、ちょうど着替えようかと考えているときチャールズが電話してきた。

・・・わたしはチャールズに手を取られつつカシミヤのドレス姿で巨大なL字型の部屋(昔の図書室)に入ってゆき、五十人の親族の拍手と乾杯に迎えられた。部屋に入ったときの第一印象は、どの顔にも覚えがないということだった。・・・それから、ゆっくりと焦点が定まってきた。・・・兄は一目で分かった。・・・わたしがキスするために身をかがめると、リーオンは麻痺していない側の顔でほほえんでくれた。ピエロもすぐに見分けられた――ずいぶん縮んで、思わず手を置きたくなるようなぴかぴかの禿頭になっているが、目は以前と同じく輝いており、家父長そのものといった風情だ。ピエロの姉(ローラのこはおたがい口にすまい、という暗黙の了解ができていた。

 部屋を一周するわたしにチャールズ(ピエロの孫)が付きそい、名前を耳打ちしてくれた。このような善意の集まりの中心になるのは、なんと楽しいことだろう。十五年前に死んだジャクスン(ピエロと双子)の子供、孫、曽孫たちとわたしは再会した。双子たち子孫で部屋はあふれんばかりだった。そしてまた、四回結婚して父親業に熱心だったリーオンも負けてはいなかった。わたしたちの歳は、三ヶ月からリーオンの八十九までさまざまだった。そして、なんという喧噪―のなか、ウェイターたちはシャンペンとレモネードを持ってやってきたこと。・・・ふたりにひとりはわたしの本について何か親切なことを言ってくれた。・・・手紙やカードが手に押しつけられた。部屋の一隅にはプレゼントが山と積まれており、何人かの子供たちは、自分たちがベッドに行かされるよりぜったい早く開けてね、と言った。

・・・部屋はそわそわしたかすかなざわめきに満たされた。・・・そしてついに少年は妖精のような顎を上げ、肺に空気を満たし、明快な済んだボーイソプラノで口を切った。

  お目にかけまするは、(じ)(じ)の心強きアラベラが

  素性怪しき余所者と駆け落ちの次第。

  (うい)(ご)が家より忽然と姿くらましてイーストボーンに向かい。

  ・・・・・・

 突然、あの少女がわたしの目の前に姿を現した。お節介で、堅苦しくて、思い上がった少女だ。しかもこの少女は死んだわけではなくて、人々が「忽然と」という言葉に感心したようにざわめいたとき、わたしのかよわい心臓は――ああ、滑稽な虚栄!――小さくはずんだのである。前口上を暗唱する少年の声はぞくぞくするほど明快だった。

・・・わたしには見当もつかない。読まれている言葉は自分が書いたものと分かっていても、記憶はかすかにしか残っておらず、あまりに多くの疑問と感情とが押し寄せてきて、集中して聞いているのは難しかった。いったいどこで台本を見つけてきたのだろう?・・・たくらみの張本人はピエロではないか、という気もした。前口上はクライマックスへと盛り上がった。

  かの幸運な娘には、豪奢なる王子との

  結婚の朝が甘美に開けました。されど用心めされ、

  アラベラが間一髪で学びしごとく、

  愛する前に考えることこそ肝要なれば!

・・・劇は十分足らずで終わった。子供の時間間隔でゆがめられた記憶の中では、『アラベラの試練』はずっとシェイクスピア劇のほどの長さに思えていたのだ。わたしは完全に忘れていたが、結婚式のあと、アラベラと医師王子は腕をつないで進み出、声を合わせて観衆に最後の二行連句を唱する。

  苦難の果てには愛の始まり。

  さらば優しき(と)(も)よ。夕陽へと船出せん、われらは!

・・・リーオンとピエロとわたしを除いた部屋じゅうが立ち上がって拍手した。この子らはなんと練習が行きとどいているのだろう。・・・大喝采のなかで気づくものはいかったが、ピエロはこらえきれなくなったらしく、両手に顔をうずめていた。両親の離婚後の孤独な恐ろしい時期を追体験していたのだろうか?双子たちはあの晩の図書室での上演にひどく参加したがったのだが、今、六十四年遅れで上演が実現したときには、兄弟はとうの昔に死んでいるのだ。

 わたしは掛けごこちのいい椅子から助け起こされ、短い感謝のスピーチをした。・・・わたしは従姉弟たちが北からやってきた一九三五年の暑い夏の情景を呼び起こそうとした。キャストの方に向いて、わたしたちの上演が実現していたとしても彼らにはとてもかなわなかったろうと言った。ピエロは力をこめてうなずいていた。かつて上演が中止になったのはまったく自分の責任であって、なぜならば自分は途中で小説家になる決心をしたのだ、とわたしは説明した。寛大な笑いが起こり、さらなる拍手が続いて、そこでチャールズがディナーをアナウンスした。こうして楽しい一晩が進んでいった。・・・それからチャールズと妻のアニーが部屋まで送ってくれた。

 

・・・まもなくわたしはものを考える精神機能を失ってゆくことになるだろう。わたしが考えているのは、最後の小説のこと――第一作となるはずだった小説のことだ。第一稿が一九四〇年一月、最終稿が―九九九年三月、そのあいだに五回あまりの改稿。――わたしの五十九年間の課題は終わったのだ。そこには、わたしたちの罪――ローラの罪、マーシャルの罪、わたしの罪があり、第二稿以降では、わたしはそれを描き出すことに力を注いだ。・・・偽らぬことを義務と考え、すべての事情を歴史的記録として紙上にとどめた。

 けれども法律の実際からいえば、この長年月に幾多の編集者が言ったとおり、裁きをつけるために書かれたこの回想記は共犯者が生きているかぎり出版不可能なのである。毀損してよい名誉とは自分の名誉と死者の名誉だけなのだ。マーシャル夫妻は四〇年代の終わりから積極的な法廷活動を始め、金に糸目をつけずに自分たちの名前を守ってきた。彼らの財産をもってすれば、出版社をつぶすなど小遣い仕事だろう。 ふたりが死ぬまで活字にできないことは分かっている。

 

 ひとつの罪があった。けれども恋人たちもいた。恋人たちの幸せな結末のことが一晩じゅうわたしの頭に浮かんでいた。「夕陽へと船出せん、われらは」か。下手な倒置だ。結局のところ、あの寸劇を書いていらい自分は大して進んでいないのではないかという気もする。というか、巨大な回り道をして出発点に戻ってきたようなものだ。恋人たちが幸福な結末を迎え、南ロンドンの歩道で寄り添いながら、わたしが立ち去ってゆくのを眺めるのはこの最終稿でだけなのだ。それまでの原稿はどれも非情だった。けれどもわたしにはもはや分からないのだ――ロビー・ターナーが一九四〇年六月に敗血症のために死に、同年九月にシーリアが地下鉄バラム駅を破壊した爆弾で死を遂げたこと、それらを読者に納得させても何の益があるのか。・・・二人が二度と会わなかったこと、愛が成就しなかったことを信じたい人間などいるだろうか?・・・わたしはふたりにそんな仕打ちはできなかった。わたしはあまりに年老い、あまりにおびえ、自分に残されたわずかな生があまりにいとおしい。わたしは物忘れの洪水に、完全な忘却に直面している。ペシミズムを維持するだけの勇気がもはやないのだ。

 わたしが死んで、マーシャル夫妻が死んで、小説がついに刊行されたときには、わたしたちは、わたしの創作のなかでだけ生きつづけるのだ。・・・恋人たちと同じくブライオリーも空想の産物となるのだ。どの出来事が、あるいはどの登場人物が小説という目的のためにゆがんで提示されたのだろう、などと気に病む人間はいまい。・・・恋人たちは生きのび、幸せに暮らすのである。わたしの最終原稿がたったひとつ生き残っているかぎり、自恃の心強き、幸運なわたしの姉と彼女の医師王子は、生きて愛しつづけるのだ。・・・物事の結果すべてを決める絶対権力を握った存在、つまり神でもある小説家は、いかにして贖罪を達成できるのだろうか?・・・小説家にとって自己の外部には何もないのである。・・・神が贖罪することがありえないのと同様、小説家にも贖罪はありえない。・・・わたしは思いたい――恋人たちを生きのびさせて結びつけたことは、弱さやごまかしではなく、最後の善行であり、忘却と絶望への抵抗であるのだと。

 わたしはふたりに幸福を与えたが、ふたりが自分を宥してくれたことにするほど勝手ではなかった。完全な宥しはまだなのだ。ふたりを自分の誕生パーティに現わせさせる力がわたしにあれば、・・・・・・ロビーとセシーリアが、まだ生きており、まだ愛し合っていて、図書室で隣り合って座り、『アラベラの試練』にほほえみを浮かべているというのは?不可能ではあるまい。」



マイクル・Z・リューインとイアン・マキューアン

  このところ本ブログに取り上げる翻訳物の作者は標題の二人が多いが、9日の月曜日にもメール予約していたリューインの「目を開く」とマキューアンの「贖罪」を借りてきた。

  「目を開く」の方は既に読んでいることが分かったが、前に読んだ時の記憶がかなり霞んでしまっているのに気付き、そのまま終わりまで読んでしまった。

 主人公のアルバート・サムスンの愛すべき母や友人ミラー、娘のサム、そして探偵事務所のネオンサイン修理に登場してきたメアリーなどと、彼との間のウイットに富んだ会話が快調に飛び交い話が進んでいく。

 サムソンと彼の周りの人々との関係は、今の時代に中々見られない信頼感が覗われ、善意が漂っている。

 彼らが活躍する町は著者が育ったインディアナポリスであり、そこでは街が資本の論理で再開発されて行くが、彼を取り巻く人々はそれまで築かれてきた人間味あるコミュニティをそれぞれ守ろうと、独自の努力を重ねている。

 警察との接触がどうしても避けられない探偵業なのだが、サムソンは情報を取るミラーをはじめとする警部ら、彼らはそれぞれに個性的なのだが、それらのくせ者と適当に付き合いつつ事情を明らかにして行く。

 また依頼の来る弁護士事務所、弁護士らも夫々に彼を雇うのに裏があったりするが、そうした諸々の関係を解きほぐしつつ事件を解明していくのがサムスンの使命である。

 そうした彼を癒してくれるのが、食堂を営む母のポジーや離婚してきた娘のサム、いまや急速にガールフレンドになったメアリーなどであり、彼らの間の会話は読者をニヤッとさせたりもする。

 このように書いてみると、彼・リューインの作品は日本で言えば直木賞の世界に通じるものだとよく分かる。

推理ものであることからは、北村薫の作品を読むときの楽しみに通じる、と言えるかもしれない。

 お嬢さんが中心となる北村ものとは違い、探偵が主役のハードボイルド味のあるリューイン作品なのだが。

 

 さてと、何かと仕事やまちづくりに取られる時間も挟まっていたので、マキューアンに移ることも、読書感を綴る時間も取れなかった。

 

 「贖罪」に関しては例によって本の帯からの紹介。「まだ戦争が始まる前、地方の旧家で暮らしていた私にとって、世界は無限に開けていた。あの暑い夏の日が来るまでは――。」

 ブッカ賞受賞作 『アムステルダム』 から3年、ブッカ賞最終候補に輝き、全米批評家協会賞など幾多の賞を受賞した、英米文学界最大の話題作にして著者畢生の大河小説。

 

 こちらはどうも直木賞の世界とは異なり、人生の辛味もよくきいた小説を読むことになりそうだ。


シェイクスピア「から騒ぎ」など

 大津純子vaiolinの連続コンサートが十周年を迎えたので、代官山ヒルサイドプラザの地下ホールに聴きに行った。The Classics~古典を愉しもう~というタイトルの演奏会でベートベンのヴァイオリン・ソナタから始まるものだったが、第三部の「コルンゴルドの音楽でシェイクスピアを楽しもう!」が面白かった。ヴァイオリン演奏の合間に市毛良枝さんの「から騒ぎ」の語りが挟まる演出で、とても楽しめた。

 家にある文学全集のシェイクスピアの巻を開いてみたがそこに「から騒ぎ」は入ってなかったので、腰越の体操の会を終えた後、3階の図書室に上がり小田島雄志訳の白水Uブックス17を借りてきた。


 舞台はシシリー島メシーナの町、内戦から凱旋してきたアラゴン領主ドン・ペトロを知事レオナートたちが迎える。小田島訳はシェイクスピアの言葉遊びを楽しめるという話が「から騒ぎ」は、それを最も楽しめる作品のようだ。


 巻末解説(村上淑郎)によるがオスカー・ワイルドやショーは、シェイクスピアがビアトリスとベネディックの関係を表すとき用いたやり方を受け継いだという。二人の応酬を見ると、知性によって散文が真の音楽性を実現し得る(J・スタイナー)と評価されているこの口達者な独身主義者たちは、周りの企みで最後には結ばれる。

 二人のやりとりの一例を紹介してみれば、

 

ベネディック  いくらレオナートが父親であろうと、娘は自分とそっくりのおやじの髭づらを肩の 上にのっける気にはなれんだろうな、たとえメシーナの町をそっくりやると言われても。

 

ベアトリス  おかしな人ね、ベネディック、いつまでしゃべっているの――だれ一人聴いてもないのに。

 

ベネディック  おや、だれかと思えばわがいとしの高慢の君!まだ生きていたのか?

 

ベアトリス  高慢が死ねるとお思い、ベネディックという栄養たっぷりの餌をあてがわれているのに? あなたのお顔を見たらどんなおしとやかさも高慢にならざるをえないわ。

 

ベネディック  となると、しとやかさって浮気者なんだな。たしかに女という女はこのおれに惚れてしまう、あなたは別だよ。ただこの胸にやさしさがひとかけらでもあればいいのだが、どうもおれは女に惚れることができないのでね。

 

ベアトリス  それこそおんなにとってはもっけのさいわい――でないとやたらにくどかれて迷惑だわ。私もありがたいことにもって生まれた冷淡さのせいか、その点にかけてはあなたとおんなじだわ。男の人のくどき文句を聞かされるぐらいなら、犬がカラスに吠えかかるのを聞くほうがまだましですもの。

 

ベネディック  どうかそのお心がいつまでも変わりませんように、そうすれば顔に生傷のたえないはずの男が一人助かることになる。

 

ベアトリス  生傷ぐらいでそれ以上まずい顔になりはしないでしょうがね。それがあなたのような顔であるとしたら。

 

ベネディック  なるほど、あなたはりっぱな先生になれるよ、オウムの学校に行けば。

 

・・・・・・と、冒頭の久しぶりの再会再会の場で、丁々発止の応酬が交わされる。

 

 また登場してくる警吏ドグベリーは、言い間違いの常習者としての役割が与えられている。たとえば、

 

ヴァージズ 止まれと言われて止まらないなら、たしかに善良な民とは言えませんな。

 

ドグベリー そのとおり、そして夜番たるものが、公務執行すべきは善良な民だけだ。なお、街中で騒いではならんぞ。夜番たるものがわいわいがやがや騒ぐのは、もっとも感謝感激すべきことであり、したがってだれもがまんしてはくれないからな。
 

 という具合で、喜劇に魅力を加えている。

 

 解説では、から騒ぎの「から」 nothing noting 「気づくこと」に通じることことも紹介されている。主役のクローディオを陥れる企みの実行者たちの会話に夜番たちが気づき、それが領主たちの耳に届くことによって、根拠のないこと=nothing にもとづく騒ぎが納まる、という話なのであった。

 

 このあと長い間読まないできた「ハムレット」を、これは家にある全集に載っていたので、読み直してみた。やはり、多くの劇の中で、特別抜きんでた劇という感想で、まさに「結構」だと思った。


リューイン「神さまがぼやく夜」

 2015年1月20日ヴィレッジブックスより発行、待望のマイケル・Z ・リューイン作のユーモア小説である。本裏表紙には「万物の創生主、神は悶々としていた。ある計画を胸に下界に降りたものの、百年ぶりの世界はすっかり様変わりし、かつて自分に似せて創った人間たちはスマートフォンにタトゥーに脱毛、理解不能な進化を遂げていたのだ。そこで彼らを知るため夜ごと酒場めぐりを始めるが、男と女の関係はどうも複雑怪奇なようで……。ミステリーの名手が極上のユーモアで現代社会を風刺する意欲作」 と記されている。

 上の惹文句を少々補正すれば「著者の神に関する感覚はわれわれ八百万の神を戴く日本人とは異なる。全知全能の存在である神が初めて無邪気に創造したこの世界に関し、自らの創造にある疑問を感じ始めてからの悪戦苦闘=真面目に考え、行動することから顕れ出てくる、さまざまに面白い場面を最後にはこの世界の再生可能性も期待させて終る、話」。

 

 上記の内容を表わすような幾つかの描写を綴ってみよう。

 

最初の宇宙を創ったとき、私は正真正銘のビギナーだった。宇宙を埋め、広げるために用いた道具も技術もしっちゃかめっちゃかだった。

・・・「主よ、そういうことではございません」 「だったらどういうことなんだ?」私はいささか不機嫌になって髪を払った。同時に、サハラ砂漠で砂嵐が起きた。「それが――」とペトロは言った。「こういう場所がございまして……」そう言って手に持ったクリップボードを見た。「テキサスというところで…」

・・・「それでも、この問題に対処する時間を取ることはもう決めた。下界の人間の中に自分を溶け込ませることも。どんな対処をするにしろ、まず人間を理解しなければならないからね。彼らはどうしてテレビ番組のことしか考えていないのか。相手が誰であれ、自分たちと異なる者は誰でも殺さなければならないと考えているのか。あまつさえ、次の食べものはどこから来るかということしか考えていないのか」

 「主よ、次の食事か、病気のことか、人間の多くがこのふたつを考えているのは確かでございます。…」 「だから、時間を持ちながら、まともな振る舞いができないでいる現代人に、私は注意を向けようと思うのだよ。彼らこそ最も堕落した者たちだ。悪魔の甘言に一番誘惑されやすい者たちだ」

・・・「なぜなら為されるのは私の意志であって、おまえたちの意志ではないからだ。おまえたちの誰ひとり竪琴ので永遠そのものになることを望まないなら、もうそろそろそれぐらいの努力はしていい頃だ」 私は十ばかりの稲妻を放った。それはひとつの大地震、四つの地震、ひとつの火山の噴火になった。

・・・しかし、外は暑くてもバーの中は涼しかった。これまた私には人間の不可解なところだ。気候をより暑くする機械を使って自分たちだけ涼む。人間は何とも不思議なやり方を考えるものだ。

・・・が、そこで私は突然気づいた。進むコースが変えられない以上、闇の中に消えていくのは、増えつづける現代人の宿命であり、避けられない未来ではないか。

 さらに私は気づいた。私もまた悪夢に出てきたネズミの中にいることに。ネズミは現代人の代替物ではなかった。あのネズミこそ現代人だった。夢の中で私はまさにネズミだった。それは私が彼らのモデルだからだ。彼らが私に似ていれば私も彼らに似ているという道理だ。

 人間を創ったとき、人間には私の弱点もまた刷り込まれる可能性のあることなど考えもしなかった。私はそのことにも改めて気づいた。人間が発展すればするほど、私の性癖が重要な意味を持つかもしれないなどとは思いもよらず、人間を地球に送り出したことに関する夢だったのだ。

 「ほんとに?」 「ほんとに」 「正直に言うわね。ほんとに責任が持てて、自分のやれることを示せる職場って、それってもうわたしにとっては天国以外の何者でもないわ」・・・「基本給自体も相当よくないとね。――責任に見合ったものでないと……いいかしら、あなたの話からすると、あなたにはいっぱい考えなくちゃならないことがある。だから今日は名刺を渡させて、それで、あなたがわたしにやらせたいと思う仕事がわたしに合っているように思えたら、電話して」 と、バーで隣り合い神のモヤモヤを晴らしたゾーエは、現代のキャリアウーマンらしい言葉を吐いた。神は至極気に入った。

 そこから、自分の迷いが吹っ切れた神さまは、世界の改造へと進むことになる。ミステリーの名手の本の終り辺は、楽しんで読む方々のために伏せておくことにしよう。


「土人の唄」はしご読み

  酒が好きだった田村さんの本なので、はしご読みし、内容を留めておこう。

 冒頭に小林庸浩撮影の写真街の点景が数葉載る。

「駅」 …人は、なにかに駆りたてられるような気がしないだろうか。

「坂道」 本郷台と上野台のざまにある、ひっそりと民家と共存している小さな坂が、ぼくは好きだ。

「路面電車」 レールは曲がりくねり、坂をのぼり、また坂をくだる。町としたしげに会話をかわしたりして、ゆっくり走る。

「銭湯」 教会にかわるものは銭湯で、その湯上がりに居酒屋に行くから、日本文化はパブとパブでなりたっているから、欧米よりもはるかに高級だと、談じたことがある。

「露地」 人の道をゆったりと歩こうとするなら、露地を見つけ出して、猫や犬や植木鉢や金魚が人と共生している暮らしの匂いを求めるしかない。

「床屋」 文字どおり床張りで、スリッパにはきかえる。常連がのんびりとたむろしていて、近所の噂話をしている四季の鉢植えもさりげなく置かれていて、ドライ・フラワーなんか一本もない。

「芝居小屋」 芝居小屋が生きているのは、小さな町が生きている何よりの証拠。木枯らしさえ、小屋ののぼりにやさしく挨拶をおくる。

 

深い空間 

 鮎川信夫の『失われた街』という書物が刊行されるので、彼と対談することになった。東京は魔の都であると同時に、僕にとっても失われた街』なので、鮎川に鎌倉の自宅に来ていただいた。鮎川が鎌倉の谷戸の奥にあるわが家にやってきたのは、これが三回目。そして素面でお喋りするのは、四年ぶりである。鮎川と詩の青春時をともにし、ビルマ戦線で倒れた森川義信の「狂死説」と「戦病死説」を対極とする失われた街』を、ぼくがただ「書物」と表現せざるをえなかったことには、言外に深い空間がこめられている。

 いつか、ぼくが感受した「深い空間」について書いてみたい。

 夜は、鎌倉の「長兵衛」という居酒屋で、カキ鍋をサカナに浅酌する。それから鮎川は夜の中を帰っていったが、、「失われた」に挿入されている学生時代の森川義信の写真を眺めながら、固いベッドで、彼の詩を思いおこす――

 歩こう

 どこかへ行かねばならぬ

 誰も見ていない街角から

 むしろ侘しい風の方向へ

 実体のない街

 深い空間をまたぎ

 おびただしい車輪は戻ってきた   ――森川義信「虚しい街」

 

あの時の光

 不思議だった

 対岸に自分の影を見るように

 過去の同じ瞬間に再び立つように

 私は立ちつくし

 夜空の流れの彼方に

 瞬く星を見ていた

     ○

 雪のあとの冬空に

 輝くシリウスよ

 見上げるこの一瞬を

 永劫の夜空から射かえしてくるのか

 ―和田佐賀子詩集「7流星群」19601976の中の「星」という作品、冒頭2節のみ写す

 

 彼女の詩集をひらくと、群馬の草色の風と光と木々の葉のそよぎが読むものの心の中を走り去って行くだろう。そして、言葉は星になり、精神の夜空をみたしてくれるどろう。

 ・・・

 あの時の光が

 どこからともなく差し来て

 白い道に真昼の静けさを敷きつめ

 私たちは今海の方へ歩いてゆく

 

 どこかの店先の小さな旗だけが

 ひかりにはためいている

 明るい空洞のような道に

 動いているのはそれだけだ            「あの時の光」

 

言葉の領土へ

 

 詩にとってまず問題は「私とは何か」からはじまる。そうしないと「われわれとは何か」「人間とは何か」は出てこないのである。けっきょく詩を書くということは私のなかに人間を探しにいくということだろう。

 僕流に極言すると、人間存在は遺伝子と習慣と環境、この三つによって成り立っている。それらを複合させるものこそ言葉である。言葉をとってしまうと三者の複合がうまくいかず、バラバラになってしまう。

 詩はまず「私」を感動させるものだ。そうしなければ他者を感動させることはできない。自分を感動させればその自分とは何かというところに必然的に入っていくだろう。

 詩が言葉を使用しながら言葉を目的とするのは言葉がすなわち人間だからである。遺伝子と習慣と環境を結びつけるものだからである。


田村隆一「土人の唄」を読んでいる

 7月に入り御成の講堂問題がようやく動き出し、夏休み中にアスベスト含スレーを撤去し、とりあえず雨漏りのしない仮屋根を葺くことになり、その後に講堂をどう修復するかが焦眉の急になってきた。保全活用をめざす会も急遽830日にシンポジウムを開くことになり、その準備に、また甲斐大泉のミニ天文台の現場の最終処理追われている。そんな中、立ち寄った図書館で標記の本に出会った

 田村さんは「人を造形する」の終りにふれたが、晩年に鎌倉で格好良く酒を飲んで、われわれ相客を喜ばせる話をしてくれていた。保存・活用のように人毎に異なったイメージが有り、政治的な思惑も錯綜する問題に関するシンポの準備をはじめあれこれの話を進めているといつの間にか頭が硬直してきてしまう。そんなおり、田村さんのエッセイを読んだら頭をほぐされるだろうと、つい手が出てしまった。

 読み始めてみると、詩人特有の理屈/感覚/見通しなどが面白い。私の仕事や趣味に関係するエッセイが二篇並んであらわれた。内容は以下のようである。

 

ABC」(あなただったら、どんな雑誌をつくりたいかの問答)

 A 雑誌のタイトルは?:「蛇よ」にしたい。蛇のように慧くあれ、という聖書の言葉からのヒントを受けた

 B 編集方針は?:を中心とした都市空間の創造です。不幸にして、近代日本には、都市化現象はあっても、人間の生活をゆったりとつつみ、個人の内なる諸能力を活性化する「都市」を創造したためしがない。思想も詩も一過性のもので、ファッションにすぎない。 ファッションですら、画一的で、個性とハーモニイに欠けている。戦後四十年しかたっていないのだから、戦後のひらかれた社会とその文化の花が開くためには、すくなくとも、戦前派、戦中派がこの世から消失しなければならない。せめて、都市空間を耕し、種子をまくのが先行世代の仕事だ。その仕事を、雑誌を出すなら、毎月、創刊号を出すつもりで、やってみたらどうだろう。(以下「創刊号だけは売れる」 「グラビアばかりの号、8ポ三段組イラスト等一切なしの号」 「諸外国の政治家の危機に遭遇したときのステートメント、そのリズムと政治的意味の分析」 等々さまざまなイメージを挙げる)

 C 文学賞は?:毒蛇賞、青大将賞など如何? とにかく文化の花が開かなければ実も結ばないし、デカダンスもない、そんな文化は、都市化現象と同じように、文化化現象にすぎない。昭和四十年代生まれの大学生たちは、太平洋戦争で日本が勝ったと思いこんでいるのが多いそうだ。半導体からはじまる戦後「文化」のおかげで、アメリカは対日貿易赤字で苦しんでいるんだからね。

 

 1984年から85年にかけて「ユリイカ」に載せたものの一つだが、その頃の雑誌インタヴューに応える彼独特の姿勢、スタイルが窺えて面白い。われわれの世界で都市空間を言い出したのは1970年代のちょっと前だったが、この言葉を新鮮に人間化して使ってくれている

 

 次の「日本語の読める人間」は、D.キーンさんの「百代の過客」を読んでいて芭蕉の詩的体験の鮮やかさに打たれた話。(多賀城の「つぼの石ぶみ」の辺) ・・・とキーン氏は引用して、芭蕉が山河の永遠性を否定し、同時に永久に生い代わる木々に表れた永続性に疑問符を打つのを見て

、つぎのように書く『国破レテ山河在リ]の言を彼(芭蕉)は疑ったのである。多賀城もなく、それを取り巻いていた風光も、昔の姿を全く留めないのに、『壷の碑』は、今も見ることが出来る。同じように、そこに描写された景色はすべて、見る影もなく変貌したというのに、世に日本語の読める人間が存在するかぎり、『奥の細道』は残るであろう。(下線田村)

 

 詩人、俳人、歌人には言葉が命。 建築家、まちづくり人には都市空間が大事・・・か。


「海街diary」を観てきた

 7月に入って、御成小講堂の今後に関する市長の考えを聞くことができ、大泉町の天体観測室増築工事も着工に漕ぎつけ、披露山のプール塗装も仕上がった、というところで横浜に出かけタイトルの映画を観てきた

 ところが、映画が始まってすぐマナーモードの携帯が震え、鎌倉に帰って佐久のOさんに電話したら、大泉町の現場の地盤が大分緩いということだった。話し合って何とか対応策を立てたが、万事がルンルンなどとは進まないことを思い知らされた。

 御成の講堂に関しても、これから乗り越えなければならない事は山ほどある。現実社会の中公共施設にあるべき姿のコンセンサスを確立し、実現に到るためには何と多くのハードルがあることか?キイポイントとしては市民の総意が大事でそこが成れば、行政、議会の理解はついて来るだろう。そして、地方自治の中でそうした状況を出現させるためには、首長の松尾市長の情熱がどうしても欠かせないのだ。

 

 さて、今日のブログは「海街diary]であった。

 まず、吉田秋生の原作コミックは素晴らしかった。詩情があり、若い4姉妹の描写が生き生きし、姉妹家族が鎌倉の町に包容されていた。それを、是枝裕和が脚本を作り監督して映画にしたのだから…。

 主役の4姉妹を演じた綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆、広瀬すずはみな、文句なく原作の香田幸、佳乃、千佳、浅野すずに成りきっていた。最初に綾瀬が幸で、長澤が佳乃と聞いた時はあれ?と感じたものだが、観てみればまったく違和感がなかった。二人は、特に綾瀬は、この映画で大人の立派な女優になった。奔放に生きる佳乃を演じた長澤も新境地を拓いたと思う。

 千佳を演じた夏帆も、役が求めるキャラクターを見事に演じ、観る者をほっとさせていた。原作では幾分騒々しさを感じさせるキャラクターだったように思うが、映画で夏帆が演じる千佳は、誰をも癒すよい女(の子)った。この女優さんは初見だったが、よかった!

 サッカー女子の浅野すずを演じた広瀬は、素直にその役にはまっていて堂々と役を演じていた。周りを囲む御成中の生徒たち、同級生を演じた前田旺志郎なども、たぶん是枝監督の指導が功を奏し素直な中学生の青春を演じていた。

 4姉妹を囲む周りの役にも、風吹ジュン、リリー・フランキー、堤真一、大竹しのぶ、樹木希林、という錚々たる俳優たちが配されていて、この映画をゆるぎのないものにしていた。特に、コミックの紙面より人間性が顕われる映画では難しい役を演じた大竹は、流石!という出来だった。初めは大竹と分らずうまいと観ていたのだが、その内に口元の表情と声から大竹が務めていると気付いた。

また樹木は、悠々と大船の大叔母を演じてやはり流石であった。

 4姉妹を描いた映画というと、大阪船場の姉妹を描いた細雪が思い出されるが、谷崎潤一郎に対し吉田秋生、市川崑に対し是枝裕和、岸・佐久間・吉永・古手川に対して綾瀬・長澤・夏帆・広瀬、そして町場の船場に対し海山が親しい鎌倉、と場所も時代も俳優の質も、映画の立つ状況も異なっているのだが、今の時代に生きる4姉妹を描いたこの映画は十分見事に創られていると言うことができる。

 身びいきな話としては、舞台となった鎌倉の風景海岸はもとより、極楽寺の切り通しや駅、赤橋、そしてわが家のある霊仙山や稲村ガ崎を望む光明寺裏山からの眺望、と親しい所が次々現われて愉しませてくれた。

 久しぶりの休日、鎌倉に着いた後はちょっと邦子の店、といった具合で、土曜の午後から夜を満喫し家に戻った


ロバート・シャーウッド/村上光彦訳「ルーズヴェルトとホプキンズ」

 今回はファーストハンド読書記である。一ヶ月程前に仏文学者村上光彦先生の夫人が出版社の未知谷を通じ送ってくれた、1300ページ近い大著である。奥付を見ると522日印刷、610日発行とあるので、印刷されて直ぐに送っていただいたことが判った

 先生は昨年5月に亡くなられたが亡くなる直前まで生涯つづけてきた訳書をつくるのに熱中されていたので、妻の村上葉としては、若き日の出発となったこの大作品を再版し、訃報のごあいさつとしたい旨の短い文章が添えられていた。

 頂いてすぐに出したお礼状には、私のブログで是非とも紹介させて頂きたいが、何せ大著なので掲載までに少々時間がほしい、と末尾に記しておいた。

 村上先生は、前の改築時に大きな役割を果たした「御成小学校移転改築を考える会」の世話人代表を長く務められてきた方であり、また鎌倉の世界遺産協議会の理事もされていた方であり、御成小講堂の命運が岐路に差し掛かっている今日この頃に、この本の読書記を綴ることには因縁を感じざるを得ない。

 

 さて、第二次大戦で日本が真珠湾に奇襲をかけた昭和16年の初めに生まれた私などには、アメリカ大統領のフランクリン・D・ルーズヴェルトの名は親しいものがあるが、ホプキンズの方はWho's Hopkins?であったし、大方の日本人も同様であろう。

 本の中からの記述を拾って紹介すれば、彼はルーズヴェルトの側近の中の無任所閣僚、文官幕僚、特殊な利害や偏見から開放された政策顧問、のような人物であった。その立場は法的には決して位置づけられなかった。

 別の記述には、「米国政府のうちで二番目に重要な人物が、世界最大の戦争の最も危機的な時期を通じ、合法的な官職もなければ自分のデスクも無かった。ただ寝室はホワイトハウスにあった。彼は政策を立案して、それが正しいことを大統領に納得させたのではなかった。彼は黒幕から操るという役割を試みるにしては、知性もゆたかすぎたし、上長への尊敬もありすぎた。大統領がみずからのために設定したゴールに到達するための最良の手段を検討する際に、その検討のための反響板を提供すること、これを彼の仕事にしていた」とある。

 対するルーズヴェルトは、彼の政策を知らせたり実行するにあたり、「演説」-具体的な声による訴えかけ-を非常に重視した政治家であり、そのために入念な準備をした。「ルーズヴェルトはその鋭敏な歴史感覚によって、それらの言葉のすべては彼が後世にのこす大量の遺産を形成するもの彼の大いさを究極的に測定する尺度は、言ったことと実行したこととの一致にあるのだということを知っていた」という記述も見られる。

 本書の著者ロバート・シャーウッドは、ホプキンズなどと共にルーズヴェルトの演説草稿を練り上げ、まとめるために夜を徹して働いていた人物である。

 

 本の構成は、第一部一九四一年以前、第二部一九四一年、第三部一九四二年、第四部一九四四年、一九四五年となっている。第一部はルーズヴェルトがニューディール政策を実行する中で、ホプキンズが認められ商務長官として活躍するあたりのことが記述されている。

 さて私はもちろん一九四一年から読み始めてみた。中の「ダウニング街十番地」には、ホプキンズがヒットラーのドイツ軍に空爆されているロンドンに、大統領の個人的な代表者としてチャーチルに会いにいった顛末が綴られているが、イギリスの首相は彼の洞察力と率直さを即座に認め、滞在時間のほとんどの時間を費やし、彼に対独戦の状況を掴んでもらおうとした

 ウィンストン・チャーチルにとってホプキンズが気に入ったわけは、当面の問題に入りこむときのスピード記録をすっかり破ってしまえるという、能力にあった。チャーチルは「実行権のある重要な人物が集まった大会議に今まで数回出席した。討論がおとろえて全員が行きづまったように見えるとき、ホプキンズはふいに重大な質問をもちだすのであった。『大統領、たしかにこれこそまとめてしまわなければならない点です。』われわれはつねにその点に立ちむかったし、いったん立ちむかえば、それを征服したのである」と語った。

 さらに別のときには、彼は「ハリー!この戦争が終ったら、陛下の政府は君に貴族の称号を授与して、それで君への報章にするだろうよ。われわれはもう称号を選んでしまった。『問題の根本卿』と名づけられることになっているんだ」と言ったという。

 ホプキンズにはルーズヴェルトやチャーチルが持っていたような幻視力や歴史感覚は無かったが、彼はそういう「話し屋」ではなくて「実行屋」だと自負していた、という。

 

 さてこの読書記も山上楽雄 記としては長すぎる部類に入っていきそうなので、今回のところはホプキンズの人物像を紹介することだけに止めることにする。

 

 もちろん、真珠湾への奇襲が、戦争に引きずり込まれることを怖れていたアメリカ国内の世論を一気に対日戦に向かうものにしてしまったとか、大恐慌から第二次大戦をうまく処理しおおせたルーズヴェルトの人柄とか、彼とチャーチル・スターリン三者が協力してヒットラーに立ち向かった模様とか、ヤルタでの三者会談の中から戦後の国連の実体が生まれてきた経緯とか、この本から我々はさまざまな事実を知ることができる。読む人それぞれが異なった箇所から感銘を受けることが出来るであろう。

 

 本の箱のカバーには「訳者あとがき」からの引用文、「本書については批評家たちが一致して推奨のことばを述べている。『ニュー・センチュリー固有名詞辞典』には、この書物について「第二次世界大戦史研究のための基礎的労作」と記されている。また、ジョン・ガンサーは『回想のルーズヴェルト』のある箇所で、本書を評して「FDRについていままでに出たもっともすぐれた著書である」と語っている。

 ここに訳者自身の感想を付け加えるなら、この著書のすぐれた特質は歴史の中で人間を捉えたことにある、と言ってよいように思う。あるいは、人間の眼で人間の行為を見ることによって歴史を捉えたと言うべきであろうか。」 などと記されている。



イアン・マキューアン「アムステルダム」

 あいかわらずセカンドハンド読書記である。図書館から借りた本は、1993新潮社発行3刷、訳者は小山太一。

 裏表紙に、98年度ブッカー賞受賞作品―才能と出世と女に恵まれた者は、やがて身を滅ぼす……。不完全な善人たちの滑稽と悲惨を描き、大人の小説愛好家を唸らせる、洗練の極みの長編。とあり、その下に養老孟司氏の感想がある、「アッという間に終わりまで読んだ。きわめて現代風。主題はなにかというなら、老年つまり落ち目の人生と死というしかない。登場人物をつなぎ、彼らの人生に意味を与えた女性はもはや死んで不在、女性を神に置き換えててもいい。その意味では、この世界は西欧の現代そのもの」 というような文が置かれていて、良い紹介となっている。

 さらには、「イアン・マキューアンじたいが、たぐいまれな現象ページをめくり続かせるすべを心得た恐るべき才能を持つ『アムステルダム』の核心は、マキューアンの厳しくて辛辣な知性そのもの」 などの紹介書評なども載せられている。

 本は主に作曲家と新聞編集者の日常を描きつつ、彼らの終末への軌跡を描いて行くが、終りに「アムステルダム」という都市名が題されたゆえんが分かってくる。

 会話や想いなどが次々と書かれて行くが、以下に読みはじめて比較的早いところで目に触れた文を紹介する。

 「ヴァノン(編集長)はデスクについてそっと頭をそっともんだ。最近ヴァーノンは、不在を抱えて生きるすべが身についてきたのを実感していた。もはやあまりよく思い出せないもの自己が失われたのを長いこと悲しんでもいられないというわけか。考えすぎといえばそれまでだが、そんな思いが数日のあいだ続いていた。そしていま、肉体面でも症状が出はじめていた。頭の右半分、頭蓋骨と脳内にわたるような、なんとも言いがたい感覚だった。あるいは、これまで日常的に慣れきって意識しなかった感覚が突然とぎれたのだろうか、雑音が止んだ瞬間にそれが意識されるように。ことの始まりは正確に思い出せた。おとといの晩、ディナーのテーブルから立ち上がったときだ。翌朝起きたときもその感じはあり、とぎれなく、名付けがたく、冷たいとかきついとか空洞とかではなくそれら全ての中間だった「死んだ」というの近いだろうか。右脳死んだ感じ……」 と、こんな具合である。

 あとがきで訳者は、作者へのインタビューに答えるマキューアン=作品誕生の辺の説明を紹介しているが、なかなか明解にこの本について分からせてくれる。

 言うまでもないと思うが、イアン・マキューアンは前にブログで紹介した「黒い犬」の著者である。


幸田文-贈呈本/献呈の書

  4月25日には、幸田文全集の扉辺に残された著者署名の話を記したが、その後出版社にscanブログ紹介の可否を確かめ、構わないだろうとなったので今日はそれらの画像を載せてみる。

   

    扉IMG_0004-軽.jpg  著者写真がぼけているのは、薄い和紙の挿入頁ごしにスキャンしたため。 左頁に 贈呈 大佛次郎氏殿 とある。

   献呈の書IMG_0006.jpg 扉写真ページ裏の白紙に献呈署名がある。

     IMG_0003のコピー.jpg    大佛次郎先生 幸田 文 とある。


偶然、幸田文「流れ」の贈呈本

 

今日は私の玩物嗜好の話。売れっ子人種のように懐が豊かではないので、複写で価値を伝えられる物=印刷物、ポスターに惹かれる。例を挙げてみれば、ベン・シャーンの画集やピラネージの展覧会図録などである。


さて標題の話だが、「崩れ」の文庫本を読んだ後、決ってることだが、やはり「流れ」を読まなくては幸田文・文学はつかめない、と図書館から「幸田文全集第六卷」を借りてきて読んだ。


借りてきたときに、寄贈 大佛次郎 殿の判が押してあったので、氏が亡くなった後にこの本が彼の書架から鎌倉市図書館に贈られたもの、とは解かっていた。


「流れ」は一気呵成に読んでしまったが、その他に「くらしてゐること 随筆Ⅳ」が入っていたので、返さずに、「さまざまな足袋」や「気に入りの隅っこ」、「出入りぐち」、「表と裏」、「たべること」などを仕事の合い間に読んでいた。


そろそろ返却日が近づいてきたので、何とはなく本をパラパラめくったら、何と!大佛氏に寄贈した際の贈呈署名が、著者写真裏の白いページに書かれていたのである。

さらさらっと、 大佛次郎先生 幸田 文 と書かれたものを、幸田文の自筆はこうしたものか、としばし見入ってしまった。


奥付を見ると(当然だが)、幸田文全集第六卷(第一回配本)とあり、昭和三十三年七月五日に中央公論社から発行されたことがわかる。昭和三十三年といえば私はまだ高校三年生の頃である。


 このページには文さんの検印も貼ってあって、円く囲む忍冬唐草の中に古字体で文の字が大きく描かれている。検印の貼り紙は何時頃まであっただろうか?


 たぶん鎌倉市図書館には、こうしたお宝がぞろぞろと有るに違いないので、図書館には蔵書調べをする方がよいのでは、と言ってみようと思う。この全集にはまだ読み残しの随筆があるので、継続して借りることにした。


 最後に、「流れ」についての感想だが、幸田文ムックを見ればさまざまに述べられていて、私のものも屋上屋となるだろうから、この読書記では例外だが控えておく。あとは、映画を何れかの機会に観賞しなければならない。まさに、セカンドハンド読書記である。




アーウィン・ショー「パリ・スケッチブック」

 昨日小淵沢辺の別荘物件探しに付き合って、11あずさ13号で現地に向かった。インターネットで押さえた指定席で依頼者と離れた席だろうと考え、また鎌倉から新宿までの時間もあるしで、手近な本棚から適当な本を抜き出して出かけた。買ってから通して読まずにいた講談社文庫である。ロナルド・サールの達者な画が間に挟まっているのも、車中に持ち込む本として具合良かろうと感じた。

 先ず何と言っても、冒頭の「はじめてパリを見た日」が読み甲斐がある。

 1944年の825日、ドイツ軍からパリが解放された日に、著者が米軍通信隊の一員としてジープに乗りパリに入城した様子が記されている。群がる群衆の中をジープがそろそろ進んで行く。花や果物、ワインが投げ込まれ満載だった。この日パリにいた兵士は誰もかれも頬にキスのあとを残してい

 まだ散発的にドイツ軍の抵抗があり、コメデイー・フランセーズの劇場ロビーが急ごしらえの病院に使われたりして、負傷者が床一面に寝かされている。看護婦たちは皆女優だったという

 コンコルド広場も人ごみでぎっしり、中からアメリカ人の女がフランス人の夫と共に現われ「あなたがはじめて見たアメリカ兵士よ」と言って両頬にキスしてくる。

 一日の終りにホテルに入り、バスに浸る所にも下から群集のどよめきが届く。パリ市民の歓声を聞きながら、これでいよいよヨーロッパにも勇気と良識と感謝との新時代が明けてくる、という気がしたという。

 

 引き続いてはサールの見たパリの数ページで、凱旋門上空にドゴール姿の天使が三色旗を掲げ漂っている画や、ルーブル宮とモナリザの姿の下にKINTETSUのロゴの付いた観光バス等が群がっている画、本屋のキオスクやレストランのフロント、セーヌ河畔の釣師、街頭酔っ払い浮浪者、群集の行進の図(デモ?パリ解放?)などが描かれている。

 続く「すぎた日々の思い出」は偶然のきっかけからパリに住むことになった1951年から20年間ほどの、光の都パリの紹介である。話はパリを求めてきた空想のアメリカ女性を各所に案内するかたちで、パリの良い場所・美味い所を描いている。

 中でセーヌ河岸、露店の古本屋で買ったヴィクトル・ユーゴー作のパリ市讃歌のカードの文が紹介されている。

 

 「都市は石モテ造リタル聖書ナリ。ぱり市内の屋根・どーむ・舗道ニシテ何ラカノ同盟マタハ連合ノめっせーじヲ伝エザルモノ絶エテナク、何ラカノ教訓・模範・助言ヲ与エザルモノマタアルコトナシ。全世界ノ人々ヨ、来タリテ無数ノ記念碑・墳墓・戦利品ヨリ成ルコノ壮大ナルあるふぁべっとヲ見、平和ヲ学ビ憎シミノ意味ヲ忘レヨ。自信ニ生キヨ。ぱり市ハソノ真価ヲ立証シタレバナリ。昔日ノ寒村るてちあ、今ヤ花ノ都ぱりト変ワリヌ。何タル壮麗キワミナキしんぼるゾ!カツテハ泥土タリシモノ、今ヤ化シテ精神トナリタルナリ!」

 いま、鎌倉は歴史まちづくりを模索し始めたところだが、果して昔の遺産が其処ここで語りかけてくるパリのような都市像を市民は望んでいるのだろうか?

 ショーも後段の「それからパリはこう変わった」では、変貌していくパリの姿を描いている。遺産を残しままでは都市は生き続けられないのである。

 引き続き「変奏曲冬のパリ」 、パリの冬は好んで憂愁にひたる通人に向いている、と述べて大都市に見られるいろいろな不幸・悲痛・憂鬱などを冬のパリの灰色の空と結びつけて描く。

 訳者あとがきで、中西秀男教授は上田敏訳ヴェルレーヌの「秋の日のヴィオロンの・・・」を引いたりして、冬のパリのわびしさ・やりきれなさを描く彼の文章を、詩的と評している。

 その後の「パリの街角で」では、アンヴァリッドとエッフェル塔の間の通りで暮らしたパリでしか有り得ない良い環境と時間を、懐かしく描写している。そして、「それからパリはこう変わった」に続く。

 シャルル・ド・ゴール空港のことも出てくるので、この本の描くパリはそんなに昔のことばかりではなかったのだ、と分かる。

 と、こんな具合の本で、間に挟まるサールの見たパリの風刺的な画も楽しめ、小淵沢行きの道中には打ってつけの選択であった。



幸田文-心の中のもの種‐「崩れ」から

  昨年の暮あたりにKAWADE夢ムックの幸田文(生誕100年・・・)をパラパラ捲り、文と玉の母子問答や、青木玉・奈緒に堀江敏幸の加わった座談、そして幸田文、石川淳、大野晋、丸谷才一の「東京ことば」に関する語り合い、それから安藤鶴夫や森茉莉の幸田文に関する人物評などを、面白く読んだ。そして年が明けたどこかで、「崩れ」を一度よく読んでみなければと感じていた。
 「木」の文庫本は本棚のどこかにあった筈だが「崩れ」に関してはひとの評などから、何となく分ったような気になっていた、はじめの安倍川上流の崩れの場所に出会った場面に関しては確かに昔読んだ記憶があるのだが、通しては読んではいなかったようだ。

さて前置きはこのぐらいで、今日の記事に入ろう。私の読書記は印象深く感じた所の記録なので、引用文がほとんどとなってしまう。今日のところは、「英雄の書-宮部みゆきの頭」に幾分通じるものがあるが、宮部の「頭」に対し幸田の場合は「心」の中の「もの種」である。


 「人のからだが何を内蔵し、それがどのような仕組みで運営されているか、・・・では心の中でなにが包蔵され、それがどのように作動していくか、それは究められていないようだ。そういうことへかりそめをいうのは、おそれも恥もかまわぬバカだが、私ももう七十二をこえた。先年来老いてきて、なんだか知らないが、どこやらこわれはじめたのだろうか。あちこちの楔が抜け落ちたような工合いで、締りがきかなくなった。慎みはしんどい。・・・心の中にはもの種がぎっしりと詰っていると、私は思っているのである。一生芽を出さず、存在すら感じられないほどひっそりとしている種もあろう。思いがけない時、ぴょこんと発芽してくるものもあり、だらだら急の発芽もあり、無意識のうちに祖父母の性格から受け継ぐ種も、若い日に読んだ書物からもらった種も、あるいはまた人間だれでもの持つ、善悪喜怒の種もあり、一木一草、鳥けものからもらう種もあって、心の中は知る知らぬの種が一杯に満ちている、と私は思う。何の種がいつ芽になるか、どう育つかの筋道は知らないが、ものの種が芽に起きあがる時の力は、土を押し破るほど強い。

先年私は奈良のお寺の三重塔建立の手伝いをしたが、こんな柄にもない、自分にも意外なことをしたのも、私が先立って念願したのではなく、心の中の種が芽を吹いてしまったから、もう止まりようがなかったといえる。また、あの時は五十歳になっていたろうか、捕鯨のキャッチャーボートに乗って、李承晩ライン近くの海へ出たことがある。幼いとき私は・・・強情っ張りな子だったから身近の人たちにも愛されず、・・・それを時折来る船乗の伯父だけがやさしくしてくれ、お前ならきっといい船乗になれる。男ならすぐにでも貰って行くんだがといってくれた。・・・伯父の評価がどんなに嬉しかったろう。だから五十歳にもなってから、偶然に得たほんの些細なつてにとびついて、捕鯨船に乗せてもらい、空と風と波の外は何も見えない海へ出たとき、伯父の懐しさに目がうるんだ。・・・我武者羅に頼んで、敢えてこういう行動をとったのも、種の急な発芽によるとしか思えない。塔はもともと父親の代からあった種であり、生れて以来、つかず離れず、塔の種は身辺にあったわけで、いずれも種の存在はわかっていたが、発芽如何は私の推察範囲ではないものだった。・・・

 

こんどのこの崩れにしろ、荒れ川にしろ、また芽を吹いたな、という思いしきりである。あの山肌からきた愁いと淋しさは、忘れようとして忘れられず、あの河原に細く流れる流水のかなしさは、思いすてようとして捨てきれず、しかもその日の帰途上ではすでに、山の崩れを川の荒れをいとおしくさえ思いはじめていたのだから、地表を割って芽は現われたとしか思えないのである。だが、ここで早くも困難にであっている。文字では、こうした大きな自然を書くことのできがたさだ。むろんそれは・・・書けなければやめて、書くほかないのである。でももう今は、ほかへ振替える気はない。この崩れこの荒れは、いつかわが山河になっている。わが、というのは私のという心でもあり、いつのまにかわが棲む国土といった思いにもつながってきている。こんなことは今迄にないことだ。私は自分がどんなに小さく生き、狭く暮してきたか、その小さく狭い故に、どうかこうか、いま老境にたどりつけたと、よくよく承知している。だから何によらず、大きく広いことには手も足も出ない。・・・それがいま、わが山川わが国土などとかつて無い、ものの思いかたをするのは、どうしたことかといぶかる。しかし、そう思うのである」

 

 以上のように、幸田文は物書きの世界の者が、何ゆえ「崩れ」などに取り組むか?という周りの、そして自らの疑問に対して、答えてみた。小さく狭い世界を描いてきた者が、老境に到って締りもなくなり突如のように大らかに、実は国の成立のカギとも思える自然現象、「崩れ」に取り組む心映えを、心の中のもの種の芽生えと言う譬え方を用いて、説明したのである。

この本を、整理休館に入っていた図書館から借りてきて読み始めたところだが、やはりこの作者は求道のひと、と判らせてくれる。それを大上段からの説明とならないように細心に心を砕いて語っているのである。

 崩れを借りる前に、石田千、原田マハ、木皿泉と本屋大賞のリストに上った、エンタメ系の?読者に癒しをもたらしてくれる本を次々と読んでいた。
 これらの若い作者たちも求めるものは持っている筈、と思うのだが幸田文のように自らの精進自体をテーマにしようとは思わない。または、そうした緊張感を読者に投げかけることはすまい、として書いているのであろう。

 或いはこれらの作と、崩れのような作とを比べるべきではない、ということか。


石田千「夜明けのラジオ」(講談社、2014年)

 これもかねてより図書館に予約していた本。借りてきて、踏切みやげや富士日記(武田百合子)と代わるがわる、外出時にも持ち出し読み続けてきた。終わったとろで面白かった所を記しておく。

 本の帯には、日が昇ればひと仕事。日が傾けば飲みに出かける。ひとり分の食事を作り、本を愛し、旅を楽しむ。 かざらない暮らしの風景を切り取った最新エッセイ集、とあり正にその通りの内容だが、作者の育った環境やそこで身に着いた習慣なども知ることができる。
 それは堅実で健康なものなのだが、常に生活をいきいき楽しむ根性に支えられていて、読者にうれしい思いをもたらしてくれる。
 仕事を仕上げるために長い時間を費やし、周りとの付き合いも多々ある私などが、羨ましくなる程の自由さで諸々をこなして、一人暮らしの時間を過ごして行く。

 本は「雨のとなりで」、「家族、日めくり」の前半から、「ごはんどき」、「やよいの空は」の後半にわたって書き綴られるが、どこを読んでも面白い。

 前々半は、春韮、若い季節、雨の季節、レモンひとつ(そうやって、一日がかりでぼろぼろ使いつくしたレモンを惜しむ。手のひらの、ほのかな移り香を吸いこみ、明かりを消す・・・どちらもよろしく、窓を見あげる。ちょっと小太りになった月がある)、塩いろいろ、やわらかな息(スポーツジムでのストレッチ体験、・・・うっすら汗をかくころ、頭とからだが仲よく目覚めてくる。 きょうも、さっぱりした朝がはじまる)、アイロン暦、検診デビュー、十五分の自由、大鍋土鍋、木々の冬(冬の木々とおなじように、ひとの生命の流れは、脈々と続けていくと思っている。・・・潔い光を受けながら、春を待っていたい)、早春の匂い、花を待つ、と続いてきて、窓をあけて、の所にきて70才過ぎの私を喜ばす文の数々に出会った。
 「洗面台に腰をかがめ、蛇口をひねる。 うつむいたまま棚に手をのばすと、洗顔せっけんがないのだった。きのうの夜、使ったはずなのに。・・・みつからない。首をねじりながら、手を洗うせっけんですませた。・・・さて化粧水。うす青のガラスびんをつかんだところで、あった。声が出た。洗顔せっけんは、このびんと前後になっていただけだった。 このところ、おなじような探しものばかりしている。 気に入っている靴下が、みあたらない。おなじものが二束あり、・・・ひとつは、さっき洗ったから、ひきだしにあるはずなのに消えてしまった。仕事で送っていただいた書類も、朝からさがしていた。紙ばさみにはさんだ覚えがあるのに、ばらばらにして一枚ずつ確かめても、見つからなかった。 いずれも、あきらめ、しばらくしたのちに発見された。・・・ぼんやりもので、忘れっぽい。ゆくすえ、思いいやられるなあ。頭をかかえた。 いま、これがないと、困る。時計をきにすればするほど、足がふわふわと浮きあがる。落ち着きをなくしたまま、おなじ場所をくりかえして見ていては、あるはずのものも探せない。・・・あるあるあると自信を持っても、よしあしがあった。なければないで、やっていける。開き直ってみたら、ないことに慣れたころに見つかった。 このような事に対し作者は、掃除に力をいれたのは、試したなかで効果があった、と言う。
 きのうも、窓を熱心に磨いた。・・・カーテンの揺れるベランダに、椋鳥が遊びにきた。手ぶらでも、なんにも困らないよ。得意気に鳴いている。」

その後は、雨のとなりで、夏の適温、・・・と続き、「雨のとなりで」は、目覚めのしたく、で終る。そこでの文章は、「すみれは寒い眠いと閉じこもっていたころも、春にそなえていた。・・・眠っているあいだ、あなたはなにをしていましたか。てのひらにのせると、一年のようすを、たずねられた気がする」と綴られて終る。




柚木麻子「ランチのアッコちゃん」(双葉社、2013年)


「川の光2」、「三月の招待状」、「踏切みやげ」が期限を過ぎ、その後借りた富士日記-上」も期限に近付いたので、返却と継続のため図書館に行ったら、予約していた標記の本を借りることができた。2014年本屋大賞7位の本なので、次の予約待ちが詰まっていると思われたので、一気呵成に読んだ。

 アッコちゃんの人物造型は、読む前にイメージした女性とは大分離れたものだった。


さて、ブログの感想もインスタントに、帯の文と本の雑誌増刊「本屋大賞2014」に載る書店員さんの書評のうち私のうなずけるものを最大限利用させてもらう。



先ず、朝井リョウの「読むほどに不思議と元気が湧く、新感覚ビタミン小説誕生!!」は本当だ。「悩みや不安はもしかするとただの思い込みで、ちょっと視点を変えれば毎日はきっとずっと明るいものになる。彼女たちのように自分の意志でしっかり歩いていける。そんな希望が見えるさわやかな小説」(牧岡絵美子さん)、「どの場面にも美味しそうな食事が出てくる。食べることは生きること。そしてその食べることを大事にすることが自分を大事にすることにつながる」(山口華子さん)も、全くその通り。



「生きていくには、気力と体力が必要。アッコ女史と三智子の環境もうらやましい限り。じっとしていては、つかめないものだ」(匿名氏)、「もっともっとこの二人のやり取りを見てみたいと思いました。サバサバして勝気な上司と、弱いけど強かな部下」(入船結衣さん)という感想も当っている。



「アッコさんや玲実の強さに惹かれてしまった。いま目の前にいる人の、自分から見えてる部分だけが真実ではなく色々な見えない何かに気付くことが大事なんだと考えさせられた」(常見卓裕さん)という感想も正しい。



 

以上のような評や感想意見はみな的を射ているが、ここでこの作品に私が感じたものを言えば、三智子に対するアッコちゃんの、野百合に対する先生の、懐深い観察や対応の仕方、そして玲実の豊田などに対する健康で邪心ない眼差しと働きなど、世の中では中々ない稀な有りようこそが、話を感動的にしている。



ということで、稀有な話が人々に感動を与える結果をもたらしている、という点で偉人伝「海賊と呼ばれた男」にも、時代活劇「村上海賊の娘」にも通じて行くのである。





とりあえず以上のように整理し、この本の紹介を終えたいと思う。

石田千「踏切みやげ」(平凡社、2008年)


 

この作者のゆかいな生活リズムと文章の紹介/記録をすると限(き)り無くなってしまいそうなので、標記の本からサワリを少々。

《仁王様の股 馬橋(総武流山線) 【踏切でユンケル飲みほし夏を待つ】》

 寝るうち、江戸川を越えていた。からだだけ起きておりた。馬橋は、昼寝の風になっている。・・新坂川の土手は、ところどころ耕され、家庭菜園になっている。かぼちゃ、トマト、きゅうりがならぶわきにいちじくの木がある。・・水辺になだれこみ咲く菖蒲は、夏日にけだるく群れなしている。・・まっすぐさきに、カンカンと聞えてから、家と家のわずかのすきまを、青と白の電車がすぎる。・・・

踏切にドクダミかたばみモンシロチョウ  金町

総武線流山線電鉄二号踏切、大また四歩。渡ると細い道をはさみ、すぐにJR常磐線の線路にあたる。俳句をさがすうち、スーパーひたちがかっとばしていく。馬橋駅を見ると、さっき通ったあおい電車が待っているのが見える。

くぐるなの札が二枚ついたしましま棒は、ずいぶん長いあいだ、空をむいたままになっている。棒のさきがおりるところに埋めこんである鉄杭のさきに、えんじの手袋が片っぽうかぶせてある。甲のところにサッカーボールのアップリケがついていた。・・線路をはさんで、一つずつあるしましまばってんの足もとに、ユンケル黄帝ロイヤルの金の紙箱がいくつも捨ててある。なかなか閉まらないみじかい踏切に、いつもひっかかるひとがいる。みじかい二両の電車がすぎるあいだを、ユンケルを飲む時間にしている。・・・

やわらかい気温にくるまれあくびをすると、ペンキのにおいがつんときた。風をたどると、橋のかげになっていた信号機にしがみついているひとがいた。・・お猿のようにするするおりてくると、そばにとめてあった自転車のかごから煙草を出した。腰に手をあて、一服した。しましまばってんは、急に働きはじめた。あおい電車が近づく。運転席のしたに、青空と名札がついていた。青空号は、馬橋を始発に、幸谷、小金城址、平和台をとおり、終点の流山につく。

三村コ線人道橋は、六本の線路をまたいでいる。すぐしたを、長くてはやい常磐線がくぐると足がすくむ。ルパン三世は、こういうところから飛び乗り、遠くへ逃げていく。・・・


塀をまわりこむと、萬満寺は古いお寺だった。・・へばりついて、反射をよけてのぞき、仁王さまの金色の目玉ににらまれたとき、きゅうにうしろから声がした。…あの足のあいだから、顔をこっちにむけて出てくるんだよ。肩を飛びあがらせふりむくと、茶いろい夏帽子をかぶったおじいさんがいた。お参りご苦労さんといわれた。・・お寺の奥から参詣のしおりを持ってきてくれた。春と秋に門のガラスがあく。仁王さんの股をくぐると、無病息災のご利益がある。・・・

と、こんな具合の踏切巡りが二十数篇収まる本。それらは、不きげん仲間(東海道線 大井三ツ叉交差点)、せいやせいや(東急世田谷線 若林)、しかし勇気を出しなさい(新京成電鉄 みのり台)、ビールが飲みたい(横須賀線 鎌倉)、ひなこちゃんといっしょ(荒川遊園地 豆汽車)、水神さま(総武線 亀戸)、踏切ばなれ(常磐線 金杉)、とまれみよ(北陸鉄道石川線 野町)、おつかい(高崎線 宮原)、蛇窪さがし(東急大井町線 下神明)、夏期講習(大同信号株式会社)、投げ入れ堂(木次線 出雲三成)などである。作者の手によるほのぼのした挿絵と写真も楽しい。


 

「踏切は、いまでは不便な場所といわれている。それでも、夏のさなかや朝夕の混雑時のほかは、不機嫌そうなひとを見かけない。となりにエレベーターつきの橋がかかっていても、ぽっかりした頬をして、しゃ断桿(しましま棒)に引きとめられている」と作者はあとがきに記している。

文化財の包蔵地であり、津波のことも考えなければならない鎌倉の町では、今後も踏切が沢山残っていくであろう。私たちは電車と自動車、歩行者が交差する踏切の空間を、この本の作者のように面白がり、ゆとりを持って見ていくのがよいのだろう。




11月の読書/タオ・禅研など


 前回の「黒い犬」「テスタメント」・・・の最後に次回は「川の光2」に関して書くかと記したが、この本に関してはタミーの救出に若いクマタカのキッドが大きく貢献した、ことを覚えておきたい。人の社会の矛盾多く明るい見通しが持てない世界に対し、動物たちの純粋な連帯に夢を託し語った寓話である。

その後角田光代「三月の招待状」(集英社文庫、2011年秋)と、石田千「踏切みやげ」(平凡社、20085月)を中央図書館で借りた。ついでにリサイクル本の中から宮部「小暮写真館」、荒俣「江戸の快楽」、平原「向田邦子のこころと仕事」などを抜き出し家に運んだ。

こうした本に倦んだとき、夜眠る前などに加島祥造「タオ」を開くこともあるが、「道(タオ)の働きは、なによりもまず、空っぽから始まる。それはいくら掬んでも汲みつくせない不可思議な深い淵とも言え、すべてのものの出てくる源のない源だ。その働きは鋭い刃をまるくする。固くもつれたものをほぐし、・・・」と、禅世界にも通じて行くページがあったりする。

ところで昨日、17日に鎌倉禅研究会特別例会が、霊仙山下の海岸沿い国道に面する鎌倉パークホテルであった。

「建長寺開山大覚禅師・生誕八百年記念講演会」ということで駒澤大学の佐藤秀孝教授の『蘭渓和尚語録』の編集刊行を終えての話、立正大学の村井章介教授の『東アジアのなかの建長寺』から蘭渓道隆の手紙に関する話の二本立てで、ともに確かで新しい知見を与えてくださった。

  地下のホール階に降りた所で高井宗務総長とお会いしたので、「今回は忍性さんの縄張りに出張って来ての禅研究会ですね」と述べた。

 受付で吉田正道老師入山三十年記念の、建長寺発行『無限の清風』を求めた。講演の終了後、時間待ちテーブルに座られた吉田管長の前に寄って行き図図しくも一筆をお願いしてみたところ、愛犬と共に法堂床几に座られた写真ページの余白に《 朝参暮請 柏樹庵 》 と書いて下さった。今後もずっと精進なさい、という意味で宝物本が得られた。

今回はどうも、とりとめのない話になった。坂ノ下のローソンでチリワインを仕込んで帰ったので早速夕食に開栓し、早寝した。角田さんの本は書評が難しい本だったが今の人々の生活・成長譚で中々興味深かった。


御成小講堂の機能転換、耐震骨組築造 提案書

 御成小「講堂」の保全活用をめざす会の中島章代表他6名の会員は、11月4日午後二時から松尾市長に面会し、提案書を提出した。

 市長回答からは、前向きに検討してくれる、という感触が得られた。

 以下は、その際に渡された趣旨文章である。

御成小学校講堂棟の機能転換・耐震骨組築造の提案


 既になされた御成小学校改築では、旧校舎の意匠を基調に半木造の校舎群が造られた。そこでは周辺の優れた環境が尊重され、伝えられてきた景観が守られた。しかし当時の想定生徒数は2百数十人で、改築後周辺にマンションが次々と建てられ、現在の生徒数は5百数十人に達している。いま御成小学校では、教室不足が緊急の課題になっている。
 「御成小の旧講堂は教育財産だが、無為無策のまま放置されてきて倉庫に使われている。もはや、学びの場ではなく生徒に危険だから講堂は壊すべきである」という意見もある。

 そうした話を聞き、当会役員が御成小学校を訪ね、校長・教頭先生のお話を伺った。そこでは「現状は人気校のせいか、とにかく生徒数が増えてきて教室が足りない。校地は限られているので教室の増設を考えると、どうしても講堂の場所に目が行ってしまう」という感想を伺うことができた。 それに対し役員からは、「講堂の歴史・文化的価値の保存と教室不足という今日的課題とは共に解決をし得る課題だと思う、会として検討してみたい」という申し出をした。

 当会の設立直後に市長・教育長にお会いし、私たちは行政の不作為で立ち腐れ状態になっている事を指摘し、市民の宝とも言える重要な文化施設を保全活用すべきだ、と述べた。市長は「重要なものと思うが、流れを見ると御成小学校との一体的な活用を思う」と回答した。

 上記のような経緯を考え合わせると、私たちの会では鎌倉市の重要文化施設を何とかしたいと考えてきたが、当局側は先ず学校教育施設としての処置を考えようという思いで一致している、と判った。 そこで当会では市の放置された文化施設を護ると共に教室不足という緊急課題を解く、という目標を立て、会内部の専門家たちが協力して、行政とも意思疎通を図りつつ、適切な提案を作ってみることとした。

講堂の景観的価値を尊重しつつ教室に転用することは十分可能である」と考えられたので、その検討を試みたところ、教室前に十分広い前室ホールをとった上で数教室を配置することができると判明した。


―ありのままでいい=そのままの姿で、教室棟に変わることができる―

 壊すべしという意見も出て、この問題に学校や市の関係者が悩んでいたのも、みな教室には教室の型があると考え、講堂の姿の中にある教室群というイメージを思い浮かべられなかったためであろう。

 実はわが国の柱・梁からなる木造建築では自由に間取りを考えることが出来て、屋敷が料理屋に転用される例などもよくあるのである。

 木造トラスで中に大空間を作っている講堂の中に教室を並べ、仕切り壁を作ることは耐震構造とするためには極めて有利で、プレファブ校舎を造る程度の柱を配置するだけで必要な強度が確保され、安全補強のために仮設材を組み上げるのと同様に、教室群の並ぶ内部空間へと模様替えができる。 6月下旬の当会のための講堂見学会を経て、構造方式の検討に関しては電機大学の今川教授らに協力を仰ぎつつ、解決の可能性を探った。

 これまでの調査報告で既存地中梁・基礎の作り直しが指摘されているが、今回の教室群の配置に必要な地中梁は従来の布基礎とは異なる位置に設置できるので、既存の木構造を形作る骨組とは競合せず、それを補強するような新しい骨組を無理なく形づくることができる。

 しかも、昭和の初めに鎌倉の大工たちが協力し合い精魂込めて作った木造建築は、見かけよりも強く手入れによって見事に蘇ると見る。

 さて一方で、木造で出来た講堂の大空間を保全することこそ大事だという意見もあろうかとも思うが、一方で建築は時代の要請を受け改造されて行くものでもある。 今回私たちが提案するコンヴァージョン=既存建物の機能転換による建物の延命策は、こんにち近代建築遺産の保全方策としてよく用いられる手法である。

 講堂建築を特徴づける木造トラスの並ぶ骨組と、支え補強する実質的な鉄骨造骨組が共存する姿は、建築の永続性と仮設性というテーマとも関係してくる。国宝の東大寺三月堂は、奈良時代の仏堂に鎌倉時代の新設部分が加わり、所定の機能を果している。往時の建物の在り様を尊重しつつ、その時代に最もかなうように建物を改良して行くことは、各時代の責務である。

 今回私たちは、講堂のコンヴァージョンによる数教室の確保が、講堂保全の一つの有効な解決策だと考え、本提案を市および教育委員会に届けることとした。 本文と共に計画図4葉、そして耐震骨組建築概算工事費見積(3000万円を下回る)を添えて提出する。

 なお今後、『教室不足と講堂保全を共に考える』というような話し合いの場を設けて、行政と市民らが徹底的に論じ合い、全市的なコンセンサスを築いていくことも、講堂の保全活用に関して大切なことだろう、と考える。




「黒い犬」「テスタメント」「玻璃の天」


  老人の体操の会で行く腰越学習センター3階に腰越図書館がある。そこで10月の21日と28日と立て続けに黒い犬、テスタメントの2冊を借りてきた。玻璃の天は30日に中央図書館に寄れたので、川の光2とともに借りてきた。3冊目まで読んだところで粗筋と感想を、心覚えに記しておく。

「黒い犬」イアン・マキューアン
  体操の休憩時間に寄ってきたので、書棚に近づいて瞬時に目立つタイトルを選んで借りたが、実のところ書名とブックカバーから、エンタメ度の高い推理小説ぐらいを予想していた。

  家に帰り読んでみると、一人の男の成長過程を含めての述壊、のようなものだったが、話の運び方が中々興味深かった。話は主に義父母の生き方を描きつつ進むが、結婚後まもなくフランスの旅で出会った凶悪な黒犬と対面し、神秘主義にはまり込んでいった妻の母と、合理主義者の夫の話である。二人は早くから仏・英と別れて住む生活を送るが、その一方で、お互いのことを認めていて夫婦でい続ける、そんな両極端の二人の生き方の間を揺れ動きつつ、語り手は義母の回想録を綴ろうとしている。義父母は大戦後の若い時期に共産党に入り、片方は早くそこを抜け出てフランスで信仰生活を送り、もう一方はその後やはり共産党と袂を分かつが、進歩派の論客としての生活は続けている。
  義父と語り手とが、ベルリンの壁が崩れる現場に居合わせたりする場面などもあり・・・案外と真面目な本で中のさまざまな話に魅力があったので、アマゾンで中古本を注文した。この作者の他の本も読むことになるか。


  「テスタメント」ジョン・グリシャム
  上述の本がイギリス人作者のものであるのに対し、こちらはリーガルサスペンスで定評のあるアメリカ人作者の本。サスペンスあるストーリーを得意とする作者の筆に導かれ、ぶ厚い本を短い間に読了した。
  話の内容は題名のとおり、遺言状の巻き起こす事件話である。110億ドルの資産を残し、大富豪が計画的に死ぬ。彼は浪費する事しか能の無い6人の子供たち、3人の別れた妻たちに愛想を尽かしていて、彼らの期待に反する遺言状を残す。遺言状を執行する役の顧問弁護士は、事務所の弁護士たちがみな多忙であるため、アルコール依存症のリハビリ施設を出たばかりのアソシエート弁護士に白羽の矢を立てる。全ての資産を譲られることになった7人目の子(私生児である娘)は、ブラジルのパンタナール大湿原の中で、インディオたちの間を伝道している。そこは、電話もつながらず船で尋ね探し廻るしかないないような場所である。

話は、パンタナール大湿原の豊かな自然やそこに流れる緩やかな時間、現地の人々のプリミティブな暮しなどの描写と、大都市ワシントンの金が中心で時間に追われる生活、そこで謀り廻らされる法廷闘争などの描写が、交互に入れ替わりつつ進む。


  多数登場する弁護士たちの作者ならではの類型描写や法廷劇、パンタナール大湿原の様子、そこでの冒険譚や素朴な人間関係、生まれたままの人間性をよく保ち続けた被相続人、彼女との接触から生じてくるアル中弁護士の更生・信心(この辺りは大分甘さの勝つ描写だがエンターテインメントにするのに必要なのだろう)と、興味を惹く話が続いて行く。最後の方でキーを握るのは、大湿原の蚊が媒介するデング熱とマラリアである。特にデング熱症状の描写は具体的でためになる。

  おわりには、一部のおこぼれに預かれるよう試み続けたしょうのない子供達とその弁護士達、金に全く興味が無かった被相続人、弁護士世界を去る決心をしたアル中弁護士、の全員にとって有難い和解となり、読者も気を軽くして本を置ける結末が用意されている。エンタメ度も高い小説。

「玻璃(はり)の天」北村薫
  幻の橋、想夫恋、玻璃の天の三話からなる本である。北村薫おなじみの花村英子お嬢様とベッキーさんの事件解決話で、実は三話は繋がった構成である。

  話は、国体を窮屈な方向に持って行こうとするしょうのないデマゴーグに対する、英子嬢及び周囲の自由主義・上流人士たちの抵抗感、その排除の成功を綴っている。
  俯瞰的に見れば至極シンプルな話である。このようになった背景には、北村の感情=自由を抹殺する動きや無教養で社会的影響力を持つ輩に対する強い嫌悪感、があったと考えられる。

次には、松浦寿輝「川の光2-タミーを救え-」を書くことになるか?




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